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今日の試合速報

コラム

百年構想のある風景

2015/1/12 10:00

いつでも・どこでも・だれでも

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地域にスポーツクラブがありながら、時間の制約などでなかなか足を運ぶことができない人がいる。そんな人たちが身近にスポーツを楽しむことができる、これは単なる理想だろうか。 ときどき訪れる近所のイタリアンレストランのオーナーシェフから興味深い体験談を聞いた。彼が、数年前に北イタリアのマジョーレ湖畔にたたずむテラスレストランで修行をしていたときの出来事だそうだ。夜12時ごろ仕事を終えていつものように職場仲間と店を出ると「今からサッカーを楽しんで帰らないか」と誘われた。

いったいこんなに夜遅くどこでサッカーをやろうというのだろうか? 車で連れて行かれた公園は暗くて何も見えない。仲間の一人がコインを取り出しボックスに投入するといきなり照明が点灯した。目の前に現れたグラウンドに驚いていると「何をやっているんだ、早くしないとタイマーが切れてまた真っ暗になっちまうぞ!」と怒鳴られて、飛んできたボールを慌てて蹴りかえす。そこには、いつでも・だれでも利用できるタイマー照明つきのサッカー場があったのだ。 フランクフルトに住んでいたとき、近くのグリューネ公園の芝生で見知らぬもの同士が自然に集まり、誰かのリュックをゴールポストに見立てて勝敗とは関係のないサッカーゲームが楽しく始まるという光景をよく目にした。国籍、年齢、職業などはさまざまでありながら、どの顔にも同じ笑みが浮かんでいた。

“まち”全体がまるで一つの家(Public)であるかのように感じる。Caf'e、Bar、テラスレストランは食堂や茶の間代わりに使われ、気の合う仲間と夜更けまで語らう。図書館・美術館・博物館を、まるで自分の書斎のように気軽に何度でも利用する。まちなかの広場や公園へ自分の庭同然に散歩に出かけ、仲間と出会って立ち話をする。こうした部屋と部屋をつなぐ花や木に彩られた道は、あたかも廊下のようだ。 すべてが、他人(個人)のものではなく、われわれ(みんな)のもの。そう考えると、いつでも・どこでも・だれでもスポーツや文化を楽しむことができるのは当然かもしれない。