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今日の試合速報

コラム

百年構想のある風景

2015/1/12 10:00

「育てる」と「育つ」

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フランクフルトに駐在しているとき、欧州で暮らす日本人の子供たちが書いた作文を読む機会があった。中でも、アムステルダムに住む小学5年のサッカー少年が書いた作文に心ひかれた。 「チームメートはみんなオランダ人。練習時間が短くておどろいた。 それなのに、パスが上手でコンビネーションがいい。」 子供が持つ感性は、実に本質をついている。 「試合に負けた後、1得点してうれしいぼくをよくがんばったとほめてくれたコーチから、 『でも、一人でプレーしてはいけないよ。 一番大切なことは、勝つことよりもみんなでプレーすることだよ』と言われた。 これがオランダのサッカーなんだと思った。だからパスが、流れるようにつながるのか。」 トータルフットボールの原点を小さな眼と心で素直に表現している。作文は、さらにつづく。 「林間学校があった。上級生と下級生と一緒に力を合わせていろんな体験をした。 オリエンテーリングなど、ここでも助け合うということを感じた。 ゲームで一番になることではなく、ゴールに着くまでのことを大切にする。

オランダに住んでいて、忘れかけていた大切なことを思い出した気がする。」 自ら考え、判断し、個の自立を育む場が、彼の日常生活の中にたくさんあるのはうらやましい。 子供を「育てる」、子供が「育つ」時間と場面が重視され、個の力が豊かに育まれていくからだ。 フランクフルト日本人学校のグラウンドで、釜本邦茂氏にサッカー教室を開いてもらったことがある。小学1年生から中学3年生まで学年ごとに試合形式で行われた。 「軸足のつま先を蹴る方向にきちんと向けて、まっすぐ振り抜きなさい。 蹴る瞬間まで、ボールから決して目をそらしてはいけないよ。」 個の力が育つための基本がいかに大切であるかを、小学1年生レベルから、その都度プレーをとめて繰り返し教える姿が印象的だった。

明治22年、福澤諭吉翁は、『時事新報』の論説「文明教育論」のなかで「学校は人に物を教える所にあらず、ただその天資の発達を妨げずして能くこれを発育する為の具なり。」と述べ、英語の“Education”の訳語には、「教育」ではなく「発育」が適していると説いた。 「発育」とは、それぞれの子供が持つ具体的な能力を「引き出す」というきわめて自発的な言葉だ。ドイツ語で“Education”と同義語である“Erziehung”の元となる動詞“ziehen”はやはり「引き出す」を意味している。もしも、当時こちらの訳語が採用されていたら、百年以上を経たいま、わが国の“個の力”はどのように変わっていただろうか。