COLUMN

25周年に寄せて

  • 第4回
    2017.10.20 FRI 10:00

    「僕は前で続ける!」サントス(現在、今年5月から、リオ州3部のクラブ「セッチ・ジ・アブリウFC」監督に就任)

    「僕は前で続ける!」

    日本ではJリーグの鹿島アントラーズ、清水エスパルス、ヴィッセル神戸、そしてJリーグ昇格前のザスパ草津(現ザスパクサツ群馬)という4つのクラブでプレーをした。全てのクラブで、それぞれ違った形の素晴らしい思い出、心に刻まれる瞬間がある。
    僕ら選手はどのクラブに行っても、優勝トロフィーを掲げることを夢見ながら、プレーしているんだ。
    だから、Jリーグカップということで話をするなら、やっぱり、清水での1996 年大会が印象深い。
    国立競技場での決勝で、ヴェルディ川崎を破って優勝した(注:延長戦を含む120 分間で3-3 の後、PK戦を5-4 で制した)。

    しかも、僕は大会MVPに選ばれるという栄誉を授かったんだからね。

    清水は実際、タイトルを必要としていたんだ。既に強豪だったし、素晴らしい歴史を築き始めていたにもかかわらず、まだどの大会でも優勝したことがなかったから。
    僕が鹿島から清水に移籍した時、その動機の一つとなったのは、清水の成長に寄与したい、チームに「勝者のスピリット」をもたらしたい、ということだった。
    鹿島はもう、ジーコがもたらし、育んだ勝者のスピリットを、確たるものとして吸収していたからね。
    だから、アルディレス監督と一緒に獲得したあのタイトルは、僕にとっても、一つの達成として心に刻まれるんだ。
    クラブ史における初タイトルに貢献できたんだからね。もう一つ、清水では2000 年大会が思い出に残る。

    2 回戦(注:当時はノックアウト方式)でヴィッセル神戸と対戦した時のことだ。僕らはアウェイでの第1 戦に、0-2 で負けたんだ。
    清水がトーナメントで次に進むためには、第2戦を3 点差以上で勝つか、2-0でPK戦に持ち込むか。でもあのころ、僕らのチームは全体的にあまり良く機能していなくてね。
    それで、当時のペリマン監督と「僕らは第2 戦で、何か違ったことをしないといけない。相手にプレッシャーをかけないと」と話していた。
    それで、監督が考えたのが、「サントス、君はセンターフォワードをやってくれ。やれるか?」と。僕は即答した。「もちろん、やるよ」。

    僕は空中戦でのヘディングシュートの練習もすごくやっていたんだ。それを生かす戦略だった。
    その試合の前半2 分。清水の先制点が決まった。誰のゴールだと思う? サントスだよ(笑)。ヘディングでね。
    それで監督は「よし、オーケーだ!サントス、ボランチに戻れ!」と。でも、僕は「いや、まだだ! 僕は前で続ける!」と答えた。
    それで、(相手オウンゴールで2-0とした後)僕らは3 点目を決めることができた。味方のパスに合わせて、ボールは僕のヘッドをかすめた。
    それを、当時一緒にプレーしていたブラジル人のファビーニョが決めたんだ。作戦が当たり、3 点先行できたんだから、再び「ボランチに戻れ」の指示。
    でも、僕は「もう少しやってみる」。そしたらもう監督も「そうか、まぁいい、行け!」と。
    それで、後半22 分、清水は4-0にすることができたんだ。誰がそのゴールを決めた? サントスだよ(笑)、信じられる?
    あの試合で起こったことは、僕の経歴にも刻まれることだ。ようやく僕はボランチに戻ったんだけど、チームは4-0で勝った。
    それで第1戦の結果をひっくり返して、準々決勝に進出したんだよ。

    サポーターのみんなに「アリガトウ」

    選手の生活というのは厳しいけど、チームの中では面白いこともいろいろある。清水時代には、こんな笑い話があるんだ。
    あるチームメートが膝に痛みを感じていた。けがが治ったばかりで不安に思い、試合の前、彼はチームドクターの福岡(重雄)先生に頼んだんだ。
    「センセイ、クスリ、オネガイシマス」って。ドクターは薬を出した。それは、カプセルを開けて使う座薬だったんだけど、彼は水を持ってきて、 丸ごと飲み込んだんだ!それを見て、ギョッとしたよ。なんてこった! 彼は言うんだよ。「センセイ、クスリ、マズイ!」って。
    みんな集中していたのに、もうロッカールームは大爆笑。彼は座薬を見たことがなくて「いや、大きくて変だなぁとは思ったんだけど」なんて言いながら、試合に突入した。(笑)

    こうやってJリーグカップについて話せるのは、とてもうれしいことだよ。僕が日本で鹿島の一員としてプレーし始めて、初めて戦った公式大会だから、思い出深い。
    この重要な大会の25周年におめでとうを言いたいよ。この場を借りて、サポーターのみんなに「アリガトウ」を伝えたい。

    日本のサポーターのいいところは「選手のために」というスピリットがあるんだ。自分の応援するクラブの選手じゃなくても、良いプレーをすればたたえるし、尊重する。良い選手を応援する。それは日本文化を印象づけるものだよ。

    それから、僕の友達にもメッセージを送りたい。

    元選手たちが、今では指導者として日本サッカーに貢献し続けている。長谷川健太、黒崎久志、奥野僚右、相馬直樹。秋田豊もそう。
    それから、大岩剛、石井正忠、森保一、澤登正朗。呂比須ワグナーも、そちらに戻った。懐かしいところでは、加藤久も、ラモス瑠偉も。名前を挙げれば切りがないほどたくさんいるけど、みんなが日本サッカーに大きく寄与できる人物。
    成功を祈っているよ。親愛を込めて。

  • 第3回
    2017.9.27 WED 10:00

    大会に関わって四半世紀公益社団法人日本プロサッカーリーグ副理事長 原 博実

    JリーグYBCルヴァンカップには、Jリーグヤマザキナビスコカップの時代から現場のコーチ、監督、そして日本サッカー協会(JFA)からJリーグと、さまざまな立場で関わってきました。その中でFC東京の監督として2004年の大会に優勝したのも大きなトピックですが、最も印象深いのは何といっても浦和レッズのコーチ時代だった1992年の大会です。

    日本サッカーリーグが幕を閉じた年で、翌年のJリーグ開幕の間に行われた大会「本当にプロのリーグができるんだろうか」という雰囲気の中で、クラブも選手も運営側もそして、おそらくはファン·サポーターの皆さんも、みんな手探りのような状態で、いろいろなことを試行錯誤しながら前進しました。

    初めて経験することも多く、それだけに印象深かったのでしょう。もちろん、前述のFC東京の優勝はクラブ初のビッグタイトル獲得でもあり、大きな喜びでした。決勝の相手は当時絶好調で、そうそうたるメンバーがそろう浦和。でも、私は消極的になったり、守備を固めたりというサッカーは絶対にしたくなかった。

    実際には、前半途中で選手が1人退場になり、防戦に回る時間が長かったのですが、延長戦を終えて0-0、そしてPKの末に4-2で勝利することができました。指導者として数多くの若い選手との出会いも印象に残っています。2007年のヤマザキナビスコカップでトップチームにデビューした長友佑都もそうでした。準々決勝の横浜F·マリノス戦で、途中交代で使ってみたら、相手の長身選手にヘディングで競り勝ってスタンドを沸かすなど、かなり堂々とプレーしました。長く活躍する選手というのは、チャンスを与えてそれをつかむカがあると感じました。

    若手の登竜門的な伝統

    昨年、私はJFAからJリーグへ移り、ルヴァンカップと名称変更したリーグカップ戦をさらに魅力あるものにして、日本サッカーの発展につなげるため、各方面と検討を重ねてきました。そして、ことしの大会でいくつかの変更を施しました。まず、試合日程をできるだけ国際Aマッチデーの期間と重ならないようにしました。これによって、日本代表選手も出場が可能となります。ただし、9月と10月は勝ち残っているチームも少なく、その期間は日程調整の点からも、代表選手抜きでもやむを得ないスケジュールとなっています。

    また、クループステージとノックアウトステージの間に、プレーオフステージを新設しました。次のラウンドに進めるのが各グループ2位までより、それぞれ3位までにチャンスが広がれば、最後まで白熱した展開が続くのは言うまでもないでしょう。 そして、決勝を除く各試合で、21歳以下の選手を1人以上、先発メンバーに含めるという定を設けました。私は監督時代から若い選手を積極的に起用してきました。日本サッカーが今後も成長し続けるためには、優秀な選手が次から次へと生まれる土壌が不可欠です。

    幸い本大会はニューヒーロー賞の設定など、若い選手の登竜門的な伝統もあります。

    大会のレギュレーションに「使わなければならない」とあるのだから、監督は思い切って21歳以下の選手を送り出すことができる。監督にとって難しいのは、若い選手を使って思うような結果を残せなかった場合、どうしても「何であの選手を使ったのか」、「使うにはまだ早いのでは」といった声が少なからず出ます。

    しかし、ルヴァンカップではチャレンジができるようにしました。

    これは監督や強化担当者など現場の声を聞くと好評で、実際に21歳以下の先発出場数をグループステージまでで比較しても、昨年は延べ94人だったのが、ことしは154人と大幅に増えています。監督がこれまで以上に、思い切って若い選手を使っているのが分かります。選手たちもチャンスを生かしています。好例が柏レイソルのMF手塚康平で、彼はグループステージの初戦で得点を決めて勝利に貢献した後、レギュラーの座をつかみ取ってリーグ戦での快進撃にも大きな役割を果たしました。若い選手が出場機会を得るというのは、チーム内の競争促進にもつながり、いい流れができてきました。ルヴァンカップの特徴、良さがより明確になってきたのではないかと思います。

    大会方式を分かりやすく

    来年は、グループステージを今回までの7チームずつ2グループ(7×2)から、4チームずつ4グループ(4×4)という方式に変更します。チーム数が奇数だと、毎節試合のないチームがあって、順位が分かりにくいという面もありました。大会方式の分かりやすさに加えて、重要なのはAFCチャンピオンズリーグ(ACL)のフォーマットに少しでも近づけたいという考えでした。そのため、詳細はこれから詰めますが、大枠としてACLに日本から最大4チームが出場すると仮定して、残る14チームにJ2へ降格した2チームを加えた16チームでグループステージを行うことを決めました。

    過去、02年から08年は4×4で実施していましたが、09年からACLに4チームが出場するようになって7×2に変更した経緯があります。しかし、J2のチームを含めても十分に戦えるという判断で、J2から2チームを加え、4×4に戻すことができました。欧州なら、チャンピオンズリーグやヨーロッパリーグに出場しないチームは、ミッドウィークに公式試合を行いません。

    それは国際大会に参加しても、アウェイは空路で2~3時間あれば移動可能で、それほど負担ではないものの、それがACLだと、東地区だけでもオーストラリアや、タイのバンコクへ行って、さらに何時間もの移動を伴うなど本当に過酷です。そうするとどういうことが起きるかというと、ACL組はグループステージが行われるシーズン前半で週末のリーグ戦に向けて疲労というハンディを負うことになってしまいます。そこで、国内のルヴァンカップも日程をACLに合わせ、少しでもJ 1全チームの条件を平等に近づけることを目指しました。

    それだけではありません。ルヴァンカップ出場チームも選手をやりくりしながら並行してリーグ戦を行うことで、指導者のマネジメント能力向上にも資するものがあるのではないかと考えています。その経験は、後々ACLで戦うようになっても、必ず生きてくるのではないでしょうか。

    ルヴァンカップは若手選手などの起用、チーム構成、采配など、指導者にもさまざまなチャレンジを可能にするとともに、クラブの総合力を上げるためにも重要な大会となっています。ヤマザキナビスコカップの時代から四半世紀にわたり、日本サッカーの発展に及ぼしてきた影響力は計り知れません。

  • 第2回
    2017.9.27 WED 10:00

    真昼の決闘ニッポン放送 煙山光紀

    『真昼の決闘。今、戦いの始まりを告げるホイッスルが、日本サッカーの聖地、東京国立競技場の青空に響き渡りました!』

    実況アナウンサーとして、過去24回のうち、13回、旧ナビスコ杯(現ルヴァン杯)の決勝戦を担当してきましたが、いつも、胸躍らせて第一声を発してきました。今、改めて振り返ってみると、リーグ戦の優勝決定試合、天皇杯の決勝戦、日本代表の最終予選やワールドカップとは全く違う独特の高揚感が、ナビスコ杯の決勝戦にはありました。記憶をたどると、2008年の大分トリニータ対清水エスパルスの1戦がよみがえってきました。

    『国立競技場は、秋の日差しに輝く中、スタンドのサポーターも気合の入ったコレオグラフィーを展開。大分の青と黄色。清水のオレンジに二分されて、両チームの一騎打ちムードが高まります!』

    解説者の山本昌邦さんの言葉が思い出されます。『良い光景ですね。清水も、そして大分のサポーターは海を渡って、聖地国立競技場に“旅”をしてやって来たんですね。そして、彼らもこれから選手と共に決勝戦を戦うわけですが、試合だけではなくて、スタジアムへの道のりも含めて思い出にすることができる。これが、中立地で行われるカップ戦の決勝戦の魅力ですね』

    同じカップ戦でも、正月の風物詩でもある天皇杯とは異なり、“両チームのサポーターだけによる特別な祭典“に参加しているという高揚感、喜びが発するエネルギーが放送席にも伝わり、実況者にも独特の感情を呼び起こしていたのだろうと思います。

    そして、『真昼の決闘』という言葉通りの、一発勝負の面白さもナビスコ杯決勝戦の魅力ですが、この“決闘”に強みを発揮したのは鹿島アントラーズでした。実に9回決勝の舞台に立ち、6回優勝。しかも4回は無失点勝利。敗れた3回のうち1回はPK戦まで持ち込んでいます。試合への入り方、先制してからのゲームコントロール、試合の終わらせ方には舌を巻くものがあり、何よりも、ここ一番に発揮する勝利への執念にはうならされました。

    この大舞台での経験値を積み重ねた事が、去年のクラブワールドカップで、あのレアルマドリッドを土俵際まで追い詰めた決勝戦につながった、大きな要因だと確信しています。そして、決勝戦までの道のりは、若い選手が出場機会を得て実戦経験を積み、新たなスターが誕生する場所としても大きな意味があります。

    23歳以下の若手に送られる『ニューヒーロー賞』は、我々報道陣にも1票が与えられており、『○○選手は面白い。絶対将来の日本代表になるぞ』などと、取材する側にも眼力を磨く機会を与えてくれる、貴重な場にもなっています。

    このように、広く日本サッカー界に大きな財産をもたらしてくれた大会ですが、過去には、決勝戦でもスタジアムが埋まらない苦しい時期もありました。そこを乗り越え、旧ナビスコ杯(現ルヴァン杯)を四半世紀にわたって継続して頂いた関係者の方々のサッカー愛には感謝するばかり、頭が下がるばかりです。

    区切りの25回目、どんな新しい才能が現れ、どんな“真昼の決闘”を見せてくれるのか、今からワクワクしています。

    今年もマイクに向かい、あのサポーターの喜びに満ちたエネルギーを浴びながら、第一声を発することができれば幸せです。

  • 第1回
    2017.8.29 TUE 12:00

    「プロサッカー」から「Jリーグ」へ、第1回決勝と第1号ゴール共同通信社 名取 裕樹

    キックオフが近づき国立競技場の記者席へと向かうゲートをくぐると、目の前には準決勝までとは一変した光景が待っていた。総入場者6万237人という満員のスタンドと、特に鮮烈だったのがオレンジの波だ。見慣れた緑色の反対側ではためくフラッグの色は、まだ目に新しかった。

    日本サッカーのプロ化後初めての公式大会、第1回Jリーグヤマザキナビスコカップ。その決勝は、壮観な眺めと「こりゃ本当にサッカー界は変わるぞ」というある種の感慨を抱いたことが記憶の底に残っている。

    三浦知良(カズ)ら豪華メンバーがそろう日本サッカーリーグ(JSL)時代の雄、読売ヴェルディ(当時の愛称、現東京ヴェルディ)と、ゼロからのスタートで勝ち上がった清水エスパルスの新旧対決には、女性週刊誌などスポーツ以外のメディアまで殺到した。JSL最後の数年間を取材した身には驚くばかりの様相となった。

    試合は読売が1-0 で制し、決勝点のカズは通算10得点でスターの座を確固とした。この1992年11月23日は、生まれたばかりの「プロサッカー」が一気に「Jリーグ」として社会に広く認知された日だったと思う。

    9月5日の開幕は茨城・笠松運動公園陸上競技場で、JSL2 部から参加した鹿島アントラーズの初戦を取材した。ここでJリーグ公式大会第1号ゴールを決めたのが鹿島のサイドバック入井和久だ。前半24分、ジーコのパスを受けてゴール右から放った30m近くの右足シュートがネットを揺らした。

    同じ茨城県日立市出身の宮本征勝監督(故人)と共に、本田技研から地元でのプロの道に挑んだご当地選手。「めったにシュートが打てない」と認めた21歳の若手がこの時ばかりは「初めから狙っていた。故郷に帰って良かった」とは、地域密着を旗印とするJリーグの船出にはうってつけだった。

    もっとも、この試合で小社が配信したジーコの写真には、背後にガラガラの観客席が写っている。後半には子どもたちがここでボールを蹴って遊んでいた。観客はわずか(?)5226人。社内では「プロサッカーといっても、まだ海の物とも山の物とも…」といった懐疑的な見方が根強く、全国紙でも序盤戦はスコアしか載らない日があったほどだ。

    そんな状況を、プロ意識に目覚めた選手たちがプレーで変えた。9日後のノートには、手応えをつかんだ川淵三郎チェアマンの言葉が残っていた。「攻撃的なサッカーを目指しているのがうれしい。戦う姿勢が90分間出ている」「サッカーの内容がだいぶ変わった。選手に感謝したい」「お客さんも、いいプレーに対する反応が違ってきた」

    第5節になると4試合で1万人超えを記録。4強には読売のほか清水、名古屋グランパス、鹿島という新興チームが食い込むなど、ひと月半足らずの予選リーグで日本サッカーのイメージを刷新し、迎えた決勝だった。

    あれから四半世紀—。今や15歳の少年がJリーグYBCルヴァンカップのピッチに立つのだから時代は変わった。ただ近年は「前半は無理せず、エンジン全開は後半で」のような試合が多い気がする。打たないのか打てないのか、今シーズンも6月末までのリーグ戦、カップ戦で前半は延べ5チームがシュートゼロ、延べ21チームが1本に終わった。それでも後半は打ち合ったり勝ったりもしているから、できるのだ。

    技術レベルでは今より見劣りした当時の選手がどうして人々を引きつけられたのか。Jリーグ史にその名を刻んだ入井のロングシュートの決断は、何が引き出したのか。ルヴァンカップは後のないノックアウトステージに入った。いよいよ「Jの原点」の見せどころだ。