虎視眈々 第一回 川崎フロンターレ 関德晴

U-21 Jリーグ

2026/8/10 (月) 17:00

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8月22日に開幕を迎える『U-21 Jリーグ』。日本サッカーの成長を加速させる、若き才能の挑戦の舞台として、新たに創設されたこのリーグには、未来の日本代表を担い得るタレントが顔をそろえることになる。そんな彼らの中から、躍動が期待されるネクストヒーローのキャリアを深掘りして、その横顔に迫る今企画の『虎視眈々』。第一回は川崎フロンターレの大型サイドバック、関德晴がサッカーとともに生きてきた日々を振り返る。

親友がつないだフロンターレとの接点

世界へ羽ばたくような選手に、オレはなる。根拠はない。でも、自信はある。サッカーを職業にすることへの誇りも、サッカーで生きていくことの怖さもわかっているから、自分にできることは全部やって、その先で待ち受けている望んだ運命を、必ず手繰り寄せてみせる。

「世界を見たらワールドカップでも、もうスペインのヤマルとかクバルシとか、自分と同じ2007年生まれの世代で活躍している選手はいるわけで、自分も若いと言ってもそんなに時間があるわけではないので、これまで以上に頑張りたいって、今は思っています」

恵まれたサイズとアグレッシブなプレーで、ピッチにダイナミズムを生み出す、川崎フロンターレの大型サイドバック。関德晴はタッチライン際を圧倒的なスピードとパワーで駆け上がり、見る者に熱狂を巻き起こす瞬間の到来を、麻生の日常から虎視眈々と目指していく。

サッカーと出会ったのは3歳のころ。近くの小学校の校庭でボールを蹴っている同年代ぐらいの子を見ていたら、自分も同じことをやりたくなってしまう。本来は小学校1年生から入団できる松が谷FCに特例で入れてもらったが、そのころはまだ練習よりも砂遊びに夢中になることもあったそうだ。

松が谷FCはギリギリ8人がそろうようなチーム。だが、ここでサッカーと楽しく触れ合ったことが、キャリアに与えた影響は小さくない。「ドリブルして、フォローして、こぼれたらまたドリブルしてみたいな、そういうチームでした。でも、本当に『楽しくサッカーしよう』みたいな感じだったので、ただただサッカーを好きになるような時間でしたね」

八王子で生まれ育ったこともあり、身近な存在だったのはFC東京。さらに合格には至らなかったが、東京ヴェルディもジュニアのセレクションにトライしている。そんな関にフロンターレとの接点が生まれたのは、のちの親友の影響だった。

「ハルキ(楠田遥希/立教大)とは小1ぐらいから知り合いで、使っている駅が1つ隣で、通っていた小学校も隣同士なんですけど、フロンターレのセレクションを受けると聞いたので、『じゃあオレも受けるわ』と一緒に受けて、一緒に受かりました。結局ハルキとは小4から高3まで、ずっと一緒に練習に行っていましたね(笑)」

恩師と慕う“タマさん”から届いた愛あるメッセージ

楠田とともにU-10のカテゴリーからフロンターレに加入した関は、1つ上の学年のチームでプレーすることも多く、5年生の時には『全日本U-12サッカー選手権大会』で田所莉旺(高知ユナイテッドSC)や香取武(東洋大)といった先輩たちと一緒に、日本一を経験。ただ、試合の出場機会は多くなかったため、ファイナリストだけが宿泊を許された「桜島が見える凄いホテル」が一番の思い出だと笑う。

一転して、6年時の『全日』では神奈川県予選の準決勝で敗退。「僕らの代も全国連覇できるぐらいの力はあったんですけど、準決勝でそれまで1回も負けたことのなかったバディーに1-2で逆転負けして、泣きすぎて足が攣ったのを覚えています(笑)」。そのバディーSCが結果的に日本一まで到達したことも、彼らの悔しさを増幅させた。

U-12時代には、恩師と呼べる指導者との出会いがあった。当時のチームのコーチを務めていた玉置晴一(川崎フロンターレU-15等々力監督)だ。「僕はタマさんって呼んでいるんですけど、サッカーノートでのやりとりもよく覚えていますし、海外遠征の時にも僕は中国のパスポートだったので、ビザの取得とかいろいろ手伝ってくれて、本当にお世話になりました」

そのまま順調にU-15へ昇格を果たした関だったが、中学校に入ると友人たちと過ごす時間も楽しくなり、2年の夏過ぎまではサッカーへ真摯に取り組めない時期が続く。そんなフワフワした状況を一変させてくれたのは、やはり“タマさん”だった。

「中2の途中ぐらいから、また1つ年上のチームでやらせてもらった時の監督がタマさんだったんです。そのころの僕はまだまだ精神的に未熟なところがたくさんあって、かなりの頻度で練習前にタマさんと話しながら、泣いていました(笑)」。

「当時はプレーも、メンタル的な部分もあまりうまくいっていなかったんですけど、タマさんは厳しい言葉を掛けた後に、メチャクチャ励ましてくれるんですよ。日曜の試合で良くないプレーをして、火曜の練習前に怒られて、励まされて、というサイクルをずっとやっていました。でも、そのころが一番精神的に成長できたと思います」

最近、嬉しいことがあった。U-19日本代表の初招集を受け、フランス遠征に臨む関へ、久々にタマさんからメッセージが届く。「『代表選出おめでとう。頑張れよ』みたいなメッセージをもらって、『まだ気に掛けてくれているんだな』って。本当にありがたいですよね」

もともとU-10に加わった時のポジションはサイドバック。小6で主戦場はボランチに変わったものの、中3になったタイミングで、玉置によってサイドバックに再コンバートされたことで、今につながるサッカー観が一層確立されていく実感があったようだ。

高1の冬。等々力のピッチで味わった無力感

昇格したU-18では、春先こそ中学生と高校生のフィジカルレベルの違いにやや戸惑ったが、少しずつ新たな環境に慣れるにつれて、自信も芽生えていく。基本的にはAチームに帯同し、紅白戦でも通用する手応えを掴んでいた中で、関にとってターニングポイントとなる一戦がやってくる。

夏のクラブユース選手権。グループステージ最終節のV・ファーレン長崎U-18戦。残り10分あまりで大会初出場となるピッチに送り出された関は、低調なパフォーマンスに終始しただけではなく、自分のサイドを崩されて失点にも絡み、試合も敗戦。この悔しすぎる経験をきっかけに、16歳へ危機感のスイッチが入る。

「もうはっきりと『もっとやらなきゃいけないな』と思いました。そのクラブユースが終わった後から、本当に自主練もするようになりましたし、公園でもボールを蹴るようになったんです。筋トレもとりあえずやるのではなくて、ちゃんとトレーナーとコミュニケーションを取りながら、意識的にやるようになりましたね」

プレミアリーグデビューは、予期せぬ形で訪れた。9月10日。EAST第13節。アウェイに乗り込んだ流通経済大柏高校戦。1点をリードしていた59分に、1年生ながらスタメン起用されていた林駿佑が決定機阻止で退場処分に。長橋康弘監督(現トップチームコーチ/U-21監督)は同じ1年生のサイドバックを、由井航太と並ぶセンターバックのポジションへ解き放つ。

結果は10人になった川崎F U-18が1-0で勝利。途中出場の“急造センターバック”は一定の存在感を示すことに成功する。「もちろん先輩にサポートされながらでしたけど、夏以降の意識の変化が少しは出たのかなと。あそこで初めてプレミアに出られたのは、まあ、駿佑のおかげですね(笑)」

リーグ連覇が懸かったシーズン最終盤に差し掛かると、関はスタメンに抜擢され、チームもFC東京U-18戦、柏レイソルU-18戦と連勝を飾る。首位の青森山田高校とは勝点2差の2位で迎えた、最終節の会場は等々力陸上競技場。優勝の可能性を残した3位の尚志高校との決戦には、プレミアでは異例の3,400人を超える観衆がスタンドへ詰めかける。

14分、尚志先制。49分、川崎F U-18同点。82分、尚志勝ち越し。「もう自分のせいで負けたんじゃないかというぐらいパフォーマンスが良くなくて……。優勝もなくなってしまいましたし、3年生のラストマッチも勝利で飾れなかったですし、『オレ、何してるんだろう……』って。悔しかったですね」。タイトルはあと一歩で、その手からこぼれ落ちていった。
高2の夏。天国と地獄の強烈なギャップ

関德晴①

2年時は飛躍の1年となった。プレミアでは全22試合にスタメン出場を果たし、左サイドバックとして完全に主力へ定着。キャプテンの土屋櫂大(福島ユナイテッドFC)を筆頭に、自由にプレーさせてくれる先輩たちに囲まれ、のびやかに成長を続けていく。

クラブユース選手権では、天国と地獄を味わった。“天国”はグループステージ最終節のサガン鳥栖U-18戦。4チームが勝点3で並ぶ大混戦の中で、他会場のヴィッセル神戸U-18が2点を先行したため、川崎F U-18は3点差以上での勝利が求められる苦境に陥ったが、諦めなかった彼らは終盤に奇跡を呼び込む。

59分、林駿佑。60分、平塚隼人。67分、香取武。70+4分、恩田裕太郎。15分間で怒涛の4ゴールを奪い、4-0で完勝。神戸U-18も後半のアディショナルタイムに3点目を挙げていたため、得失点差で1点だけ上回った川崎F U-18が準々決勝進出を引き寄せる。

「何回思い返しても本当に奇跡だと思いますし、あの試合に勝った時点で優勝できるんじゃないかという自信にもなりました。あの日の夜がU-18時代で一番楽しかったかもしれないですね」

一方の“地獄”は決勝のガンバ大阪ユース戦。会場の味の素フィールド西が丘の上空には雷雲が立ち込め、程なくして激しい雨も。大会側の決定も二転三転する中で、試合は40分1本勝負という異例の展開に。当初の予定から2時間以上遅れて、20時15分にキックオフされる。

お互いがフルスロットルでぶつかり合った一戦は、G大阪ユースが先制したものの、川崎F U-18が柴田翔太郎(明治大)と香取の連続得点で逆転。だが、G大阪ユースも40+2分に同点に追い付く。

40+5分。G大阪ユースの山本天翔(ボルシア・ドルトムント)が直接狙ったFKが、ゴールネットへ突き刺さる。ファイナルスコアは2-3。「やり直せるならやり直したいって、みんな言うと思いますね。U-18時代の一番悔しい思い出ですし、できることならガンバ戦の日に戻りたいです」。今でもあの日の悔恨と喪失感は、昨日のことのように関の中で鮮明な色彩を保っている。

実は関のスマホの待ち受け画面には、長橋からよく言われていたという言葉が記されている。「僕はよく試合中に思考がリセットしてしまうので、試合がちょっと止まった時にベンチから長橋さんが『ノリ!油断、×(バツ)だぞ』みたいな。僕だけ戦術の指示じゃないんですよ(笑)」。

「間違いなく僕をプロにしてくれた人は長橋さんだと思います。今でも練習の合間に、個人レッスンみたいな感じでいろいろなことを教えてくれますし、凄く情熱的ですよね。かと思ったら、急に『オレもオマエみたいになりたかったよ。背が大きくてうらやましいなあ』みたいなことも言われるんです(笑)。もう僕は長橋チルドレンですね」。今季から改めて共闘している恩師への、感謝は尽きない。

高3の夏。ケガに苦しむ時期に見つめた小林悠の背中

トップチームのキャンプに参加し、さらに日常の基準が一段階引き上げられ、オフシーズンから絶好調をキープしていた、アカデミーラストイヤーの2025年。だが、プレミア開幕を目前に控える3月に、サンフレッチェ広島F.Cユースと対戦した練習試合で、関の右足が突然悲鳴を上げる。

「正直、サンフレッチェ戦も対人は全部勝っていて、体の仕上がりも凄く良かったんですけど、試合中に足を踏み込んだら『パキッ』という音が聞こえたんです。その時点で、『あ、もうダメだな』って」。診断の結果は右足の中足骨骨折。全治3か月の重傷だった。

負のサイクルは続く。夏前に戦線へ復帰し、プレミアでも前半戦の最終戦に出場。高校最後のクラブユース選手権で、1年前のリベンジを期していた矢先に、少し右足に痛みを覚えたため、病院で診察を受けると、再び骨にひびが入っていることが発覚したのだ。

2回目の離脱時は1回目と違い、体も動けば、ジョギングもできるものの、復帰のめどがなかなか立たないという難しい状態。そんな日々を支えてくれたのは、やはり親友の存在だったそうだ。

「電車ではハルキとあまり話さないんですけど、駅を降りてから生田のグラウンドに行くまでに、ちゃんと自転車を漕いだら10分も掛からないような道を、話に夢中になりすぎて20分ぐらい掛けて、メチャクチャゆっくり行ったりしていて(笑)。その時間が一番好きでしたね。グラウンドに行っても何もできなかったですし、ハルキとくだらないことを話している時間が楽しかったです」

加えてリハビリの期間に刺激を受けたのは、20歳近くも年の離れたトップチームのストライカーの姿勢だったという。「(小林)悠さんは担当のトレーナーの方が一緒だったんですけど、凄く優しかったですし、当時38歳だった悠さんを見て、『やっぱりやるべきことをちゃんとやっている人が生き残るんだな』と思えて、リハビリのモチベーションにもつながりました」。修羅場をくぐり抜けてきた男の背中は、想像以上にカッコよく、大きかった。

12月7日。Uvanceとどろきスタジアム by Fujitsuで行われた浦和レッズユース戦は、3年生にとってアカデミー最後のホームゲーム。この学年は全員がU-15からの昇格組で、短くても6年、長い選手は10年もの時間をともに過ごしてきただけに、とにかく気持ちが入っていた。

結果は5-2で快勝。関は試合中から、久しぶりに湧き出てきた感情に襲われていたという。「みんなで一緒にやってきて、本当に良かったなと思える試合でしたね。レベルが上がるにつれて、試合中に楽しいと思うことは少なくなってきたんですけど、あの試合は本当に心の底から楽しかったです」。試合後にみんなで勝利を喜び合った時間は、一生の宝物だ。

決意の日本国籍取得。日の丸と君が代に覚えた感慨

今年の4月。フロンターレから、中国国籍を有していた関が、日本国籍を取得したことを知らせるリリースが発表された。もちろん簡単な決断であったはずがないが、本人は自分の言葉で、しっかりとその経緯を話してくれた。

「国籍のことは中学生ぐらいからずっと考えてきましたし、親とも本当によく話してきた中で、今後も日本で生活していくのだったら、日本国籍の方がいいかなと。あとは、やっぱり日本のサッカーをずっと見てきた分、『日本代表になりたい』という想いが強かったので、日本国籍を取ることを決断しました。18歳になってすぐに申請をして、1年ぐらい経った今年の3月末に取得できたという流れです」

前述したとおり、6月にフランスで開催されたモーリスレベロトーナメントに挑む、U-19日本代表に初招集された関は、日の丸の付いたユニフォームを纏って、君が代を歌い、海外の代表チームと刃を交える経験に恵まれた。

「率直に嬉しかったです。ずっと見てきた代表のエンブレムを背負って、君が代を歌って、ピッチに立てたことに誇りも責任も感じましたし、いろいろな見られ方があるとは思うんですけど、この決断を正解にしていかないといけないなということを、改めて感じました」。思い描くのは、言うまでもなく青いユニフォームを着て立つ、ワールドカップのピッチ。その権利を勝ち獲るために、これからもたゆまぬ努力を続けていく。

幕を開けた、サッカーだけに打ち込める日常。24時間をサッカーに費やせるようになった今に、関は少しだけ重圧を感じている。「サッカーだけで生活できるというのは本当に幸せなことですけど、やっぱり今は仕事なので、これまで以上に真摯に取り組まなくてはいけないですし、自分が一番やらなくてはいけない立場だと思うので、それがちょっとだけキツいですね」。

「今の立ち位置はチームで一番下ですし、(林)駿佑と(長)璃喜が試合に出たのも上から見ていましたけど、率直に凄いと思うのと同時に、もちろん悔しい気持ちはありましたよ。でも、自分は自分だとも思っていますし、追いつき追い越せじゃないですけど、焦らずに頑張っていきたいです」
「『公式戦でもやれるんだぞ』ということを示さなくてはいけない」

8月からは明治安田J1リーグと並行して、新設された『U-21 Jリーグ』も開幕を迎える。明治安田J1百年構想リーグではベンチ入りも果たせなかった中で、このリーグに出場することの意味も理解しつつ、ここからのルーキーシーズンへの決意を、関は力強く口にする。

「自分が今後成長していくうえでも、J1で試合に出ていないのであれば、U-21 Jリーグでちゃんと結果を残して、『公式戦でもやれるんだぞ』ということを示さなくてはいけないですし、まずはJリーグに出られるように、できるアピールは全部していくつもりですけど、U-21 Jリーグに出るからには、自分がチームを勝たせなくてはいけないですし、自身も成長する大会にしたいです」。

「今シーズンは、まずトップチームの試合でデビューすることを目指して、その先は自分の特徴を発揮しつつ、安定したプレーを見せられるように頑張りたいですね。普段練習で一緒にやっている選手たちが、等々力のピッチで躍動しているので、自分も試合に出たら、みんなと同じようにしっかりプレーしたいなと思います」

いつでも寄り添ってくれた恩師の方々や、強い絆を結んだかけがえのないチームメイトたちとともに、このクラブで身につけてきたことは、必ずこれからの自分が歩むべき方向を、明るく照らしてくれる。揺るがぬ覚悟を携えて、ひたすら前へと突き進む、フロンターレの希望の光。関德晴は虎視眈々と、さらなる広い大空へと飛び立つ明日を、全身全霊で追い求めていく。

関德晴②

取材・文 土屋雅史