虎視眈々 第二回 名古屋グランパス 萩裕陽

明治安田J1リーグ

2026/8/11 (火) 17:00

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8月22日に開幕を迎える『U-21 Jリーグ』。日本サッカーの成長を加速させる、若き才能の挑戦の舞台として、新たに創設されたこのリーグには、未来の日本代表を担い得るタレントが顔をそろえることになる。そんな彼らの中から、躍動が期待されるネクストヒーローのキャリアを深掘りして、その横顔に迫る今企画の『虎視眈々』。第二回は名古屋グランパスの野心に満ちたGK、萩裕陽の人生にフォーカスする。

■サッカー選手の“名産地”、春日井市に導かれた運命

常に良質なゴールキーパーを輩出し続ける、名古屋グランパスのアカデミーの最新作である。189センチの長身に詰め込まれた抜群の身体能力は、俊敏なセービングと勝負強いシュートストップ、飛距離を出せるロングフィードとなって表現され、萩裕陽という守護神の特徴へと昇華されていく。

2026年に昇格したそのトップチームでは、シュミット ダニエル、ピサノアレクサンドレ幸冬堀尾という“日本代表”の肩書を持つベテランと若手がしのぎを削り、彼らをいぶし銀に支える武田洋平という重鎮まで健在。合流当初の感想は「勝てる気がしないですよ」だったのもうなずける超ハイレベルな陣容だが、そこに高卒の新人を飛び込ませるが吉と判断したクラブの期待値は、逆説的にうかがえるというもの。地元愛知県出身の選手という意味でも萩の存在意義は大きく、間もなく開幕する『U-21 Jリーグ』は彼を大きく育て上げるためには是が非でも有効活用したい舞台となる。

名古屋市の北側に位置する春日井市が出身の萩は、通っていた幼稚園に偶然にもサッカークラブがあったことで、このスポーツに出会った。両親は何かスポーツをやらせたいと考えていたので、そこにあったのが野球チームなら野球をやっていただろうと萩は言う。

しかしながら春日井という土地は愛知県内でも知る人ぞ知るサッカー選手の“名産地”で、名古屋グランパスに関連するだけでも杉森考起(栃木SC)や藤井陽也、前述のピサノも春日井出身で、萩とは隣の小学校の学区だった。

地元にはフェルボール愛知という名門クラブも存在し、萩が所属していたアクアJFCというチームも近年では名を上げてきた。萩がサッカーに染まっていくのは俯瞰してみれば自然な流れにも思えるうえに、親兄弟がサッカーをやっていたというならば、これはもう運命だったのかもしれない。

■「マジでGKだけをやろう」と決意した挫折の経験

小学校1年生で既に身長が130センチを超えていた萩は、その体格を活かしてまずはFWやDFでプレーしていたという。クラブには彼の後に鈴木大馳(サガン鳥栖)も加入し、「大馳が前のポジションをやる時は自分が後ろをやったり、その逆もと言う感じで交互にやっていた」と、フィールドプレーヤーとしての自分を振り返る。「右のサイドハーフをやったりもして、他の選手よりも大きかったから空中戦は負けなし。結構点取り屋でした」と語る表情は本当に楽しそうだ。

では、なぜ彼が正反対とも言えるGKに転身したかと言えば、理由としてはチームのGKの選手が親の引っ越しやサッカーを辞めてしまったことで不在になり、一番背が高かった萩に白羽の矢が立ったということなのだが、それだけでは彼はプロになれるほどにこのポジションへと熱意を注ぐことはなかっただろう。

彼の守護神としての転機にして原点は、GK転向直後の小学校5年生の時、愛知県トレセンに落選したことが、その後の大きな流れを生み出していったのだと萩は語る。

「GKになった当時は、現役でプレーしていたナラさん(楢﨑正剛GKコーチ)のプレーを見て、楽しそうだとは思っていたし、一回やってみるのもありだけど、最初は本格的にやろうとは思ってなくて。でも、小学校5年生で初めてキーパーとしての挫折を味わったんです。それまでは順調だったんですけど、県トレセンの選考で落ちた。なんで落ちたのか、自分より上手くない選手が選ばれていると思って腹を立てたりもしましたね。しかも理由を聞いたら『ここから背が大きくなるか分からないから』『技術もない』って感じで」。

「自分と同じ早熟で背が高くて、その時の自分より背が高い選手は選ばれていたんですけど、少しボールを怖がるようなところもあるキーパーだったので、『なんで自分じゃないんだ』って悔しかった。そこからですね。グランパスのキーパースクールや、名古屋市内のキーパースクールに通い始めて、名古屋のスクールでは基礎練習をメインにやって、ダイビングなどの技術はグランパスのGKスクールで練習して、しっかりキーパーとしての技術を練習したら、後期の県トレセンには受かったんです」。

「あの挫折のおかげで、僕は『マジでGKだけをやろう』と思いました。その時に初めて、『もっと上手くなりたい』と思った。落ちたからフィールドに戻ろうとは思わなかったですね。チームに他のキーパーがいなかったということもありますし、もともとの負けず嫌いが出たのかなとも思います。トレセンに落ちた時に、『次は受かってやる』という気持ちになった。逃げたくもなかった。結果論ですけど、あれがなかったら、その後にグランパスに入れたかもわからないですね」

早熟が懸念された体格もすくすく育ち、小学校6年生の終わりには164センチにまで成長。愛知県の伝統ある大会である『フジパンカップ』優勝などタイトルも経験し、夏前には名古屋グランパスU-15への加入も内定していた。余談だがフジパンカップではGKながら得点もマーク。「一応狙って、誰かが触ればいいかなと」という自陣ゴール前からのロングシュートだったので、得点者アナウンスがされなかったと悔しがったが、ロングフィードの飛距離も武器の1つである彼の素地をよく表す良いエピソードだ。

県トレセンでは後藤悠貴(清水エスパルスユース→中央学院大)や、平野稜太(大分トリニータU-18→関西大)とも切磋琢磨し、JFAのフットボールフューチャープログラムなどにも参加。後に名古屋のU-15やU-18でチームメイトになる選手たちともここで出会うことになり、意気揚々と県下ナンバーワンの育成組織、強豪チームの門を叩くことになるのだった。

■リハビリ期間に20センチも身長が伸びた“怪我の功名”

「最初は自分がここでできるのか心配だったけど、ちょっとずつ慣れていって、自分も意外とできるなと自信を持てた。自分をレベルアップできる環境に身を置けたのは良かったと思う」と、本人もやる気に満ちた中学年代のスタートだった。

ただ、U-15年代での萩はその半分をケガとの戦いに費やすことになる。しかも彼がグランパスの選手になってすぐに世はコロナ禍に見舞われ、試合も満足にできない日々を余儀なくされた。

ようやくパンデミックも落ち着きを見せた矢先に手を骨折してしまった萩は、その秋に今度は足を疲労骨折。2年生になって肩の関節唇損傷の重傷を負い、それが治るとまた足の疲労骨折。リハビリのために自宅から40分ほどかけて練習場に通う日々には、「行きたくないな」とストレスを感じることもあったというが、ひとつ文字通りの“怪我の功名”だったのは、彼の身長がこのリハビリ期間に大幅に伸びたことだった。

中学入学時には前述のように164センチだった彼の身長は、中学3年生で184センチまで一気に成長。かつて名古屋に所属していた三井大輝(188センチ/徳島ヴォルティス)や中島大嘉(188センチ/ザスパ群馬)も「たくさん寝ると背が伸びる」と休養や睡眠と身長の関係性を熱弁していたが、ケガを治すことにも体の力を使っている中で20センチも身長を伸ばした萩の素質というか、野性味というか、パワフルさには恐れ入るばかりだ。

「良い風に捉えればそういう面もありましたね。中学1年生の時から1つ上の代でクラブユース選手権や高円宮杯にも出場できましたし、自分たちの代でも出場して、どちらもベスト4まで行けた。良い経験ができた年代でもありました」と、総じて見れば良い3年間と言える時間を過ごして、彼は名古屋U-18への昇格も勝ち獲った。

萩裕陽

■息づくのは“チームを勝たせるGK”という楢﨑正剛の哲学

U-18では1年生のころからプレミアリーグWESTでの出場機会を得ていた萩だが、この進路については少しの迷いもあったという。「高校選手権は出てみたい大舞台ではあったんです」。やはりサッカー少年の目に“センシュケン”の舞台は輝いて見えたようで、中学年代での全国大会も経験していた自信から、「プレミアリーグに出場している高体連チーム」というのは高校進学にあたっての1つの選択肢ではあったという。

当時で言えばそれは東なら前橋育英高校や流通経済大柏高校、西は大津高校や履正社高校などがあったが、最終的には名古屋U-18を選ぶ。理由はさまざまな意味での環境で、「少しサボり癖がある」と自覚する萩は「高校だと部活なので、途中でやめたり、遊びに走ることもある。でも、クラブのユースだとそういう人はすぐに切り捨てられる。チームメイトも意識が高くて、みんながプロを目指す環境が刺激になった。先輩にもプロに近い人がいて、それも刺激だった」と語っている。

中学時分は口では「将来はプロになりたいです!」と言っていても、「本当になれると思って言ってないし、現実的だとは思ってなかった。どうせなれなくて大学に行って、大学でサッカーをやめたりするかもなって思ってました」と、まだそれぐらいの本気度でしかなかったのは、萩のキャラクターを思えば何だか納得してしまうところもあった。

ピッチ外では物静かで、ちょっと天然ぽくって、純朴なイメージすら漂う。中学校3年間における自分の成長はと問うても、「歳相応に技術もついてきた感じはあったけど、それが周りからどう見られていたかはわからない。身長も伸びても、もともと反射的な動きも悪くないところが落ちなかったので、止める範囲が広がった。これは成長、してるっすよね……?」と最後は迷ってしまった。萩はそもそも昔のことをあまり覚えていない。

ただ、確実にサッカー選手としては成長し、進化も続けている。高校年代も負傷は多かったが、高校2年生時には「年代別の日本代表に入りたい」と自らを焚きつけて、有言実行を果たした。1年生の頃からスタメンを確保していたプレミアリーグでも年々パフォーマンスの質を上げ、“チームを勝たせるGK”という楢﨑正剛の哲学が息づく名古屋の系譜を継ぐにふさわしい佇まいも手にした。

中学生まではまったく見なかったというサッカーの試合映像やプレー集なども、高校年代になると徐々に見始めるようになり、自分のプレースタイルの確立や自分に合ったロールモデルを探すようにもなった。「自分は性格的にすぐ熱くなる、逆に言えば大胆なプレースタイルなので、海外の選手の方がそっちのタイプは多いんじゃないかなと。そこで海外の選手のプレー集を見てみたら、ラムズデールやケパなんかはかなり大胆なプレーが多くて、彼らのプレー集はよく見ます」

自分を少し客観視し、選手としての成長につなげていこうというのは大きな変化で、それは先に出た「すぐに熱くなる」という性格の部分の捉え方にも同じことが言える。中学までは試合の結果に一喜一憂し、負ければ怒ってチームの雰囲気を悪くしていたと彼は反省する。

■「とにかくシュートを止める人」への大いなるチャレンジ

一方で当時の山口素弘アカデミーダイレクターは、萩のトップチーム昇格の発表会見の場で「感情のコントロールについては、僕は良い部分でもあるとは思う。若いころは逆にそういう感情を出さない子もわりと多かったりする。それをあまりネガティブに言いすぎるのもどうかなと」と、熱さは萩の良さだとした。結果、萩は試合では熱く、普段は穏やか、二面性を持つサッカー選手としてのキャラクターを育むこととなった。

「感情のコントロールは、自分でも分かってはいたけれど、別に直す気はなかったです。そこで言わなくなったらダメだと思って。別に直さなくてもいいでしょ、これぐらい言ってもこれは試合中だし、という感じで考えるようになりました。試合以外で、たとえば学校とかではそんな大きな感情の変化はありませんし、どちらかというと物静かな方。一緒にふざける相手がいればふざけたりしますけど、一人でいたら普段から全然怒ることがない。だから逆にプレー中ぐらいなんです。感情のコントロールをしなくてもいいのは」。

「試合になったら“勝ちたい”という気持ちが出てきて、負けず嫌いもあって感情が上がってくる。ただ、試合前の方が緊張はしやすくて、緊張しだすと極度に緊張しちゃって吐きそうになるので、それはキツいからユースのころはアップでは軽く流したりしてました。試合に入ったら緊張がなくなるので、僕はそこでスイッチが入るのかもしれません」。

「最近はそのうえで、冷静に判断しながらプレーするのもいいなと思って、それを意識したいとは思っているんですけど、やっぱり難しいですね。今までやってきていないことだから、そんなすぐにはできるわけではないので。そうなると自分の感覚でプレーする方がやりやすいけど、それだとプロの強度についていけない時があるので、やっぱり冷静な判断を自分のプレーに取り入れたい場面はありますね」

これまでの自分だけでは足りないと、萩自身も感じている。自分のプレースタイルを意識し、課題としてきた感情の制御にも乗り出し、しかし良さは消さずに成長をしていきたい。名古屋アカデミーでの6年間はクラブOBでもある広野耕一GKコーチのもとで日々の鍛錬をこなし、現在は楢﨑正剛GKコーチに師事するという変化もまたいい刺激だ。

「『ここはユースじゃないぞ』と言われることは何回もありました。これを職業として捉えて、本当に死ぬ気でやっていかないといけない」と気を引き締める。楢﨑コーチのGK哲学は言うなればオーソドックスの極みで、「『一つひとつにこだわりを持ってやっていくことが大事』だと何回も言われていて、丁寧にやることはたまに忘れるんですけど(笑)、できるだけこだわってやっています」と強く意識する教えになっている。

小学生の頃、スタジアムで見た“楢﨑選手”は「『顔怖いな、いかついな』って(笑)。でも、あのいかつい人がメッチャシュートを止めるから、『相手のシュートを打った選手も怖いんだろうな』って思っていた」という畏怖すべき存在。その選手に教えを乞う今は萩にとっては誇らしい日々でもあり、あの時の自分が見ていた「とにかくシュートを止める人」になるために、とにかくトレーニングを積み重ねる。

■目指すのは師匠超え。シビアなポジション争いに堂々と挑む

Jリーグ最高クラスに厳しい名古屋のGKポジション争いにも虎視眈々。その目に映るライバルたちは強大だが、そのリスペクトがむしろ正々堂々と、彼の負けず嫌いを刺激する。

「最初にこのグループに入った時は……、勝てる気がしなかったですよね。こんな人たちと一緒にやっていけるのかって感じで、最初から心は折れかけていた。でも、練習は楽しくて、武田さんたちが盛り上げてくれる。壁は高いなって感じますけど、楽しめています。Jリーグでもなかなかないんじゃないですか、こんなにレベルの高いGK陣は」。

「最初は不安でしかなかった。上がれたのは嬉しかったけど、ものすごいGKのベテランの武田さんがいて、ずっと海外でやってて日本代表経験もあるダンくんがいて、さらに最近試合に出始めてすぐにA代表まで経験したピサノくんまでいる。なかなかないですよ、本当に。でも、この中でやったらやったでさまざまなものが見えてくるというか、吸収できることが多くて本当に自分のためになる。彼らと一緒にやれていることは本当に良いチャンスだなと今は捉えています」。

「元GMの山口さんにも『とんとん拍子にはいかなくても、着実に成長していけば、お前はやれる力を持っている』と言っていただいたことも本当に嬉しかった。今はまだ下積みじゃないですけど、ここで経験を積んで技術を磨いて、いつでも試合に出られるチャンスを、いつでも試合に出られる状態で待って、コツコツとやっていくのが今の自分の目標にしているところです。武田さんのように、いつ出てもしっかりやれるようなメンタリティを持つための、自信をつけておきたいですね」

壁にぶつかった時、萩はこれまでもいつも「負けたくない」「逃げたくない」と立ち向かい、大きくなった自分でその障害を乗り越えてきた。思えばプロ昇格を決めた時、今後の目標を問われて彼はこう答えていた。「楢﨑さんの持つGKのJ1出場記録を超える、ということです」。その数字とはJ1リーグ通算631試合である。

現時点で3人しか達成していない600試合超えは、ちょっと頑張りすぎた宣言だったのかもしれないが、やる気の表れとしては素晴らしく清々しいものではあった。その第一歩としての1年目のシーズンは半年間の特別大会が終わり、ここから本格的なプロキャリアが幕を開ける。

同時に始まる『U-21 Jリーグ』についてモチベーションは高く、「今までは若手がJリーグの試合に出ることは、特にキーパーは難しかった。でも、U-21 Jリーグで試合ができるようになったことで、試合感覚も忘れずにやっていけると思うし、そこで活躍すればJリーグの方のチームに呼ばれる可能性も出てくる。U-21 Jリーグでも一つひとつの試合で勝ちにこだわっていきたい」と意気込む。

繰り返すが、名古屋のGK哲学は“チームを勝たせるGK”である。その系譜に連なる若き守護神は、持ち前のパッションあふれるセービングでチームを救い、勝利に導く。

萩裕陽

取材・文 今井雄一朗