虎視眈々 第三回 浦和レッズ 田中義峯

U-21 Jリーグ

2026/8/12 (水) 17:00

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8月22日に開幕を迎える『U-21 Jリーグ』。日本サッカーの成長を加速させる、若き才能の挑戦の舞台として、新たに創設されたこのリーグには、未来の日本代表を担い得るタレントが顔をそろえることになる。そんな彼らの中から、躍動が期待されるネクストヒーローのキャリアを深掘りして、その横顔に迫る今企画の『虎視眈々』。第三回は高校2年時にプロ契約を締結した浦和レッズの18歳、「よっちゃん」こと田中義峯の過去と今に迫る。

■「よっちゃん」と呼ばれ始めた幼少期の回想

2008年4月5日、博多から少し離れた福岡市早良区で、1人の少年が生まれた。8つ上の長女と、4つ上の次女に続く、末っ子だった。

「お姉ちゃんたちは小さい頃の僕が可愛すぎて『ちび』と呼んでいましたが、この身長になった今でもそう呼ばれてます(笑)」

現在の身長は186センチ、体重は85キロ。両親の体格は平均的だが、ともに185センチあったという母方の祖父母から堂々たる体躯を受け継いだ。

そんな彼を初めて観たのは、2024年のプリンスリーグ関東でのある試合だった。浦和レッズユースの選手名もおぼつかない状態で観戦していると、ピッチ内のチームメイトやベンチの監督から、しきりに「よっちゃん!」と呼ばれている選手がいた。なんとも珍しい呼び名だ。

「サッカーを始めた頃のコーチにそう呼ばれた小1くらいから、チームメイトもスタッフもずっと『よっちゃん』です。『よし』とか『よっち』と呼ぶ人もいましたけど、しっくりこなくて、結局『よっちゃん』ですね」

呼び名のインパクトが先行してしまったが、サイズも当たりの強さも、足元もある良いCBだなという印象だった。しばらくして、「よっちゃん」は浦和レッズとプロ契約を締結し、プロサッカー選手・田中義峯となった。彼はどのようにしてここまでたどり着いたのだろうか。

■12歳の決断。熟考の末にリベルタU-12からU-15へ

「お母さんが言うには、暴れん坊でよく家を飛び出していたらしくて、パンツ一丁でコンビニまで出歩いたりしていたそうです(笑)。これだけ元気なら何かスポーツをやらせた方がいいだろうとなって、幼稚園の時にサッカーを始めたみたいです」

物心ついた時は既に、サッカー少年になっていた。小学校に進むと、本来なら3年生からとなるところを、2年生時に飛び級でFCリベルタU-12に入団する。

「小学校でも1人だけメッチャでかかったので、そのころからフィジカルを使ってたりもしましたが、チームはテクニックを重視していて、『相手を見てサッカーをする』ことを言われてきました。そんなに走るチームではなかったですね」

早くから体格に恵まれつつも、それに頼るだけでなく技術を磨いた。ただ、現在の若手選手の例に漏れず、コロナ禍の影響と無関係ではなかった。ひょっとすると、もう少し違った未来もあったのかもしれない。

「大会が開かれなくて、全国の舞台を1、2回逃しています。高校生の時に来ていたら人生に関わるくらいだったと思いますけど、まだ小学生だったのでコロナの影響をそこまでは感じませんでした。でも、全国が決まったのに出られない、大会が開催されませんというのはショックでしたね」

中学校へ上がる際に、最初の選択の時が来る。リベルタのU-15に上がるか、別のチームを模索するのか。下した結論には保留的な意味合いもあったかもしれないが、結果として遠回りにはならなかった。

「サガン鳥栖U-15唐津に行く人もいましたし、自分にも何チームか誘いが来ていましたが、リベルタU-15に上がることにしました。この時はそこまで進路を意識していなくて、まだサッカーを楽しみたいという気持ちがありました。ただ、Jリーグのチームに行ったら、そのチームに合うような選手に育てられるイメージもあって、今はどのチームにも対応できる選手になりたいという考えもありました」

中学時代は、トップ下を中心にボランチ、センターバックと幅広いポジションを経験する。スルーパスを出し、自らもゴール前に飛び込んでいった。“相手を見てサッカーをする”というリベルタの教えをさらに磨き、相手の逆を取る、相手の嫌がることをするようなプレーを習得し、財産としていった。

「レベルが上がれば上がるほど、上手い人ほどそういったところが上手いなと思います。レッズで言えば、安部裕葵さん(FC今治)は本当にそこが上手かったです」

田中義峯

■浦和レッズユース加入を決意した理由

そして2度目の選択がやってくる。ご存じのとおり浦和レッズユースに加入することになるのだが、思い切った決断を下したのには、明確な理由も複数あった。

「レッズ以外にも4、5チームくらいオファーをいただいていましたが、その時の自分のウィークポイントが“走る”とか“戦う”ところだと思っていて、中学であまりやってこなかったところでした。レッズならそこが成長できるイメージがあったので決めました」

強みをさらに伸ばそうとするのか、弱点を補って強みに変えていくのか、大別すれば選手の進路は2つに分けられる。後者を選ぶとともにもう1つ、退路を断つという理由があった。

「家から一番遠いところ、というのが一番の理由だったかもしれません。九州のクラブからも誘いがありましたが、なにか嫌なことがあった時に、家から近いクラブだと『戻れる』という気持ちになるかもしれない。関東のレッズだったら帰れないなと思って」

いまどきのスポーツ選手として、越境進学は珍しい選択ではない。それでも当人にとっては一大決心であり、やすやすと新生活に順応できるわけではない。田中少年もその1人となったが、単身で関東に乗り込んだこともあり、相当に苦労したという。

「親だったり助けてくれる人が身近にいなくなって、埼玉に来たばかりの時はもうダメダメで、サッカーどころじゃなくて、生きるのがやっとみたいな感じでした。親やお姉ちゃん、中学の時のコーチとメチャクチャ連絡を取って、支えられてばっかりでしたね」

初めての関東。親元を離れての寮生活などから想像以上にダメージを受け、サッカーをするのも嫌になっていた。しかし、親族など地元の人々の支えと、新たなチームメイトの支えがあって、徐々に心も安定していく。

「同期の小川直澄だったり、本当にみんな優しかった。チームにはすんなり入ることができましたし、仲間と助け合ってどうにかやっていけていました。ジュニアユース組と外部組の対立みたいなものもなくて、そんなことをやっている場合じゃない、1つの目標に向かってやっているんだという感じが強かったです。練習にも少しずつ慣れていって、私生活も落ち着いてきて、少しずつ力を出せるようになっていったと思います」

■強固になったプロへの意識。プレミアリーグで得られた経験

自分に足りなかった“戦う”要素も身に着けていき、1年時から試合にも絡み始めたことで、「自分のベースができた」と感じたという。レッズユースはセンターバックとして田中を育てる方針で獲得し、試合で起用されるポジションもそうなった。ただ、本人はもう少し先を見据えてもいる。

「スタッフの中にはボランチで育てたいという人もいて、自分としてもボランチでも上に行きたいという思いもあります。センターバックだとこのサイズは珍しくないですけど、ボランチやサイドバックだとあまりいないですから。どこでもできる選手を目指してはいます」

そうして、当初はぼんやりとしていた“プロ”への意識も明確になってきた。もともとあった自信が、一時は揺らぎかけたものの、より強固になった。

「当時のリベルタは県3部だったので、そこからレッズユースに行ったことで最初は差があったかもしれません。でも、高1の最後ぐらいかな。プリンスリーグでもやれるようになってきて、本格的に“プロ”を目指すようになったと思います。はじめのほうは何もかもうまくいかなかったですが、やれる自信があってレッズに来ましたし、俺はこんなはずじゃないとずっと思っていたので」

1年時にレッズユースを昇格させたが、クラブとしても久々の挑戦となったプレミアリーグは1年で降格の憂き目を見た。それでも、悔しさとともに手ごたえがあった。

「落ちて当然だったかなというのはありますし、落ちた時も『まあそれはそうだよな』みたいな感じはありました。自分としても、人を巻き込むというところは全然できてなかったと思います。でも、1対1で負けることはなかったですね」

田中義峯

■「いい意味で、仕事だと思わないようにしたい」

そして2025年のクリスマス、クラブからプロ契約締結の意向を伝えられ、翌年1月に発表される。楽しむものだったサッカーが、仕事になった。

「ユースの試合に出ていてもそういう目で見られるようになって、ちょっとやりにくい気持ちはありました。プレーへの影響はなかったと思いますけど、立ち振る舞い1つ1つを見られている感があって。いい意味で、仕事だと思わないようにしたいとは思っています」

レッズユースで足りなかった面を磨き、戦える、かつ上手いセンターバックとして己を確立してきた。ただ、本人の理想はまだ高みにある。幼少期に憧れてきた選手はフレンキー・デヨング。ポジションはセンターバックではないが、“相手を見てプレーをする”選手の代表格と言ってもいい存在だ。

「最近の日本人選手で言ったら鈴木淳之介選手や冨安健洋選手が好きで、プレーもよく見ています。予測や準備が凄いなと思いますし、攻撃でも柔軟なことができるイメージなので、自分もそうなりたいなと思っています。やっぱり、攻撃も守備も両方できる選手が憧れです」

残念ながら、2月から6月にかけて行われた明治安田J1百年構想リーグでは出場もメンバー入りもなく、トップチームで練習しながら、ユースでのプレーが中心となった。難しい立場だったが、トップの練習では技術を盗み、ユースの試合では違いを見せようと奮闘してきた。結果として、浦和ユースはプリンスリーグ関東を最少失点の首位で折り返している。同年代との試合では、やれることをやってきた。

今季の目標はやはり、トップデビュー。今季は心機一転、背番号が「42」から「28」へと変わった。これまでのすべてのクラブで42をつけてきた、南野遥海の加入がきっかけだったが、契機でもあった。

「南野くんが42をつけたいということでしたし、自分としては42にこだわりはなかったですから。そこで、ショルツや根本(健太)くんのような活躍している人がつけてきた番号のイメージがあったので、自分から『28にしたい』と言いました」

浦和のアカデミーでDFを務めてきたものが、アレクサンダー・ショルツ(FC東京)を参考にしないはずがない。手本にすべき偉大なプレーヤーだが、彼のどこに注目しているのか。

「罠を張ったり、ドリブルもできたり、攻撃でも守備でも賢い選手だなと思いながら見ていました。トップチームの選手はみんな罠を張って、自分の逆を突いてこようとしてきます。(オナイウ)阿道くんにしても、わざとスペースを空けて消えてから出てきたり、フィジカルよりも駆け引きが上手くて苦戦しています。でも、やっていて『絶対に勝てないな』とも思わないですし、その駆け引きのやりあいも楽しいです。自分も駆け引きや予測を強みにして上に行きたいと思っているので、いい経験になっています」

■「自分のことを信じて、準備していなければいけない」

今季の浦和は現在のところ、登録選手は27名。うちフィールドプレーヤーは24名で、堀内陽太はリハビリからのスタートとなる。いわゆるスモールスカッドで特に後方は薄い。チャンスは大いにある。

「あまりU-21は気にしてなくて、トップで出ることを考えていますが、そのための経験を積むためにU-21があるのかなというイメージです。どちらがメインになるかわかりませんが、そもそもトップチームの人数が全体的に少ないので、『どこでもやりますよ』というつもりでやっています」

ただ、本人の意気込みに反して、トップチームに遅れてU-21チームの沖縄キャンプが始まるや否や、そちらの練習に回ることになった。それでも、これまでもうまくいかない時期を乗り越えてきたのだからと、気落ちすることなく虎視眈々と牙を研ぐ。

「成長できる幅は人よりも大きいと思うので、他の選手が油断している間にじゃないですけど、自分が一気に成長して、一気にポジションを奪ってやろうくらいには思っています。我慢も必要だと思いますし、今は出られなくても、自分のことを信じて、準備していなければいけないと思います」

逆境にもめげず、周りの人が目に見えてわかるくらいの成長を遂げるシーズンにしたいと誓い、自分にも絶対にチャンスはあると言い聞かせて、準備を続ける所存だ。

そういえば、トップデビューを果たしたり、成人を迎えた暁には、何か新しい愛称に変えたりと考えたりはしないのだろうか。

「それはないですし、なんならユニフォームネームも『よっちゃん』で、応援も全部『よっちゃん』がいいですね」

そういってはにかむ表情には幼さがまだいくらか残りつつ、この半年間でずいぶんとプロらしい顔つきにもなってきた。田中・よっちゃん・義峯が大観衆のもとでプレーする姿が待ち遠しい。

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取材・文 沖永雄一郎