ほんの4年前までは、いちアマチュア選手に過ぎなかった。しかし、果てしない向上心を備える男は1年ごとにキャリアアップを実現させ、昨年ついに日本のトップシーンであるJ1の舞台にたどり着き、レギュラーの座をものにする。
驚きのシンデレラストーリーを突き進む小池龍太(柏レイソル)は、果たしてどのようなサッカー人生を歩んできたのだろうか。「本当に濃かった」と本人が振り返る、紆余曲折のストーリーに迫っていく。
1995年8月29日、東京都八王子市に生まれた小池がサッカーを始めたのは、4歳の時。きっかけは兄の影響だったが、彼にとって大きかったのは、近所に住む一つ年上の従兄の存在だった。
従兄の名前は中島翔哉。現在、ポルトガルのポルティモネンセSCに所属するプロフットボーラーである。
小池と中島は同じタイミングでサッカーをはじめ、小学校に入学すると、同じチームに入団。お互いの存在に刺激を受けながら、切磋琢磨を続けていった。
「ライバルというわけではないですけど、朝早くに学校に行って、翔哉と一緒にボールを蹴り合うのが毎日の始まりでしたね」
当時はおとなしかったという中島と、やんちゃだった小池。性格は正反対だったが、サッカーというスポーツが、彼らの共通語だったのだ。
小学4年生になると、小池は東京ヴェルディのジュニアチームのセレクションを受ける。前年に中島がそのチームに受かっており、後を追う形でセレクションに臨んだのだった。しかし結果は不合格。もうひとつ受けていた、横河武蔵野FCのジュニアチームでプレーすることになった。
「翔哉は先に受かっていて、僕は次の年に受けたけど、落ちてしまった。正直、悔しかったですね……」
小池は当時の心境を振り返る。
「翔哉は小さいころから有名でしたし、年代別の代表にも選ばれて、エリートという感じでしたね。でも、威張るところもないですし、違うチームに行くようになってからも、練習のない日は小学校のグラウンドで、いつも一緒にボールを蹴っていましたよ」
エリート街道を突き進む従兄に対し、自身は決して目立つような存在ではなかった。しかし、「僕はいつも下から這い上がってきた」と小池は言う。東京Vに受からなかったこの時から、小池のシンデレラストーリーが始まったのだ。
中学に進学するタイミングで、小池はひとつの岐路に立たされる。そのまま横河武蔵野FCのジュニアユースに進むのか、それとも別のチームを選ぶのか。その時に小池の目に留まったのがJFAアカデミー福島の存在だった。
「横河で資料が配られて、アカデミーの存在を知ったんです。何人か受ける選手がいたので、僕も受けてみようと。正直、受かるとは思ってなかったんですけどね」
JFAアカデミー福島は当時、まだできたばかりのチームであり、小池は3期生として入学する。中・高一貫教育の全寮制。6年間、親元を離れて生活することになるのだが、「そこに対する不安はなかったですね。楽しむという気持ちのほうが強かったです」と、大きな希望を抱いて福島へと向かった。
しかし、小池にいきなり試練が待ち受ける。
「入ってすぐに、オスグット(成長期に起こりやすい膝の炎症)になってしまって、1年間サッカーができなかったんです」
このままで大丈夫か、そんな不安がよぎるなか、一歩間違えれば自暴自棄になりかねなかった。それでも持ち前の明るさでこの苦境を乗り越えていく。1年後に復帰すると、はじめはブランクを感じたものの、着実に成長を遂げていき、2年生の終わりごろには試合に出られるようになっていた。
中学時代は目立った活躍をできなかったものの、チームメイトと過ごすアカデミー生活は充実していた。しかし、中学の卒業式当日に、またしても大きな試練が、小池を、そして福島を襲った。
その日は、2011年3月11日だった。
「卒業式が終わって、寮に帰って、3年間の想い出のDVDをみんなで見ていたときに、地震が起こりました。本当に何が起きたか分からなかったです。卒業式だったので、親と弟が来ていたんですが、弟が車で寝ていたので、すぐに車まで走っていって……。本当に苦しい時間でしたけど、全員が無事だったので、本当に良かったですね」
地震が起きてから3日後、小池は家族と一緒に八王子に戻った。しかし、「これから、どうなるんだろうな・・」という不安が小池を襲う。古巣である横河の練習に参加させてもらうなど小池はトレーニングを続けたが、これからもサッカーができる保証はなかった。
5月に御殿場でアカデミーが再開されることとなり、小池は新たな土地で高校生活をスタートさせる。
「思ったよりも早くみんなが集まれたので良かったですけど、福島の人たちのことを考えると、自分たちだけがサッカーをしていてもいいのかなという気持ちもありました」
葛藤はあったものの、しっかりとサッカーに取り組み、福島に良いニュースを届けたい。小池だけでなく、JFAアカデミーの選手たちは、その想いを胸に、御殿場で自己研磨を続けた。
そうした努力が実ったのが、小池が高校3年生となった2013年。プレミアリーグEASTに昇格すると、同リーグで3位と躍進する。「僕らが3位になって、福島の皆さんが喜んでくれたという話を聞いた時は、嬉しかったですね」
福島に対する想いを、小池は今でも持ち続けている。
「卒業したタイミングや、成人式でお邪魔させていただいたときには、地元の方が温かく迎えてくれました。本当にありがたかったですし、プロとなった今、何ができるかを考えています。サッカーをしていいニュースを届けることしか今はできないですけど、少しでも笑顔だったり、希望を福島県に届けられたらいいと思っています」
福島で3年、御殿場で3年。6年間のアカデミー生活は、小池にとってかけがえのない時間となった。
「素晴らしい仲間もできましたし、いろんなことを学ばせてもらいました。今こうやってJ1でサッカーができているのは、間違いなくアカデミーのおかげ。すべてにおいて大切な6年間でした」
もっとも、いいことばかりではなかった。
「アカデミー生活で一番苦しかったかもしれない」
小池がそう振り返るのが、進路を決めることだった。
プロ志望だった小池だが、Jクラブからのオファーはなかなか届かなかった。同期の金子翔太(→清水エスパルス)、安東輝(→湘南ベルマーレ)、平岡将豪(→AC長野パルセイロ/現在はいわきFCに所属)がプロへの切符を掴むなか、小池にもチャンスがなかったわけではない。ヴァンフォーレ甲府の練習に参加する機会を与えられたのだ。
「当時の甲府には羽生(直剛)さん、水野(晃樹)さん、柏(好文)君とかがいて、本当に優しく接してくれました。こういうサッカー選手になりたいし、こういうところでサッカーをしたい。プロへの想いがより強くなりましたね」
しかし、朗報は届かなかった。すでに年の瀬も迫り、年が明ければ本格的に進路を決めなければいけない。大学進学を考えていなかった小池は、すがるような思いで、レノファ山口FCの練習に参加した。
当時の山口はJFLに所属するチームだった。Jリーグ参入への機運は高まっていたとはいえ、アマチュアチームであることに変わりはなかった。
「海外に行くことも視野に入れていたんですが、やっぱり、まずは日本でしっかりとキャリアを積むことが第一だと考えました。練習参加させてもらい、山口に入れてもらえるということだったんですが、正直、それまで行ったことがなかったし、どういうチームかも知らなかったんです」
当然、アマチュアである以上、サッカー以外で給料を稼がなければいけない。
「葛藤はありました。バイトしながらサッカーをするというのは、自分が卒業してからイメージしていた生活とまったく違いましたから。でも逆に自分を苦しめて、そこから上り詰めたほうがいいんじゃないかって。振り返れば今までの人生がそうだった。うまくいかないことから上り詰めていくタイプだったので、そういうスタートが合っているのかなと思いました」
もちろん、這い上がれる確証などなかった。アマチュアのまま終わってしまう可能性も小さくなかった。それでも小池は、いばらの道に足を踏み入れる決断を下した。
「這い上がれなかったら、僕自身の限界というか、それまでの選手だったということ。終わらないとは思っていたけど、山口に行ったのは賭けであり、自分にとって大きい挑戦ではありましたね」
18歳の少年は、並々ならぬ覚悟を持って、山口へと向かっていった。