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イッペイ シノズカの成長物語

プロのサッカー選手には当然ながら、それぞれに、それぞれが歩んできた成長物語がある。いつサッカーをはじめ、どのように現在の自分を作り上げていったのか。その知られざるストーリーに迫る新連載「知られざる、あの選手の成長物語」。第1回目の今回は今年8月、横浜F・マリノスに加入したイッペイ シノヅカ選手に登場いただいた。
名前は日本人ながら、ロシア国籍を持つこの無名でミステリアスな22歳は、どのようなキャリアを積み、横浜FMへとたどり着いたのか。その稀有で、逞しいサッカー人生を辿っていく。

イッペイ シノヅカは、1995年3月20日に千葉県で生を授かった。日本人の父とロシア人の母を持つハーフで、5歳まではアメリカやロシアで生活をしていた。幼少期は心配性の母の注意も聞かず、目を離せばすぐにどこかに行ってしまうようなやんちゃな子どもだった。

日本に戻ったのは6歳の時。身体を動かすのが好きな少年は、近所の神社で父親と遊ぶのが楽しみのひとつだった。
「小さい頃はいろんなスポーツをやっていました」

そのなかで最ものめり込んだのがサッカーだった。小学校3年生の時に地元のチームに入ると、すぐにレギュラーとなった。身体は小さかったが、ポジションに関係なくボールのある所に常に顔を出す自由奔放なプレースタイルで、チームの中心となっていった。
もっともチームはさほど強くなく、市の大会で勝つのがやっと。シノヅカも市の選抜チームに選ばれた経験はあるものの、当時の実力は「中の中の選手でした」という程度のものだった。

その頃、憧れていたのはブラジル代表のロナウジーニョ。自身のプレースタイルも「パスはほとんどしなくて、ドリブルばかりしていた」という。中学になると柏レイソルのジュニアユースのセレクションを受けるも不合格。ドルブル主体のチームだった地元のカナリーニョFCでプレーを続けた。
しかし、中学になっても際立った選手ではなく、最後の大会では試合に出ることができなかった。

「ドリブルの練習ばかりしていたので、ドリブルは上手かったと思うけど、効果的な選手ではなかったですね」
いわば平凡な選手に過ぎなかった中学時代のシノヅカだったが、当時からプロになるという想いは強かった。それは「なりたい」という願望ではなく、「なっている」という確信めいた感情だった。

「根拠なんか、あるわけがないんですよ。下手というか、大したレベルの選手ではなかったんですから。でも、なぜか分からないですけど、プロになるんだろうなと思っていたんです」
無謀とも思えるその想いは、近い将来に現実のものとなる。ターニングポイントはロシア行きだった。

中学を卒業したシノヅカは千葉の中央学院高校に進学。そこでも試合に出られない日々が続くなか、東日本大震災が起きて、母の祖国へと移り住むことになる。
「震災が起きて、学校に行けなくなったんです。電車も止まってしまって通えなくなったので、とりあえずおばあちゃんが住んでいるロシアに行くことになったんです。しばらくして日本に帰ろうとしたら、ビザの関係で、3か月はロシアに残らなくてはいけなくなってしまった。なぜか僕だけが帰れなくて……」

ロシアにいても暇を持て余すだけのシノヅカは、サッカークラブを探すことになる。最初に近所のアマチュアチームでプレーしたが物足りず、さらに上のレベルを目指すなか、育成に定評があるアカデミア・チェルターノバ・モスクワに加入することになったのだ。
ここでのプレーが、シノヅカにとっての転機となった。

もともとは3か月で帰国する予定だったが、チェルターノバ側はシノヅカの秘めたるポテンシャルを高く評価してくれた。シノヅカもロシアの高いレベルに身を投じるなかで、サッカーへの情熱はますます強まり、ここでプレーしたいという感情が日増しに大きくなっていった。シノヅカは日本の高校を中退し、ロシアでサッカー選手の道を歩むことを決断したのだ。

しかし、親元を離れてロシアで生活することに不安はなかったのか。

「僕はチャレンジするのが好きなんです。そうした環境下にいた時のほうが強くなれると思うし、自分でもそれを感じていたので、ロシアに行って良かったですね」
もっとも、ロシアでの生活は楽しいだけではなかった。しばらくして母親もロシアに来てくれたのだが、やはり言葉の壁がシノヅカに重くのしかかった。

日本にいる頃から母親がロシア語で話しかけていたので、ヒアリングは少しだけできたが、自分の想いを伝えることができない。自身の考えを周りに分かってもらえないのは、日常生活だけでなく、サッカーをプレーするうえでもネックとなった。
「練習ではよく怒られましたね。自分の言いたいことも言えないから、受け入れるしかない。練習に行きたくない時もありました」

まだクラブでサッカーを続けながらロシアの高校に通い始めたシノヅカだったが、学校生活にも上手くなじめなかった。
「日本のドラマとかを見て、日本が恋しくなったり。学校に行きたくなくなった時もありました。サッカーは休めませんでしたけど、学校を休んだことは何度かありましたね」

それでも、持ち前のチャレンジャー精神で、シノヅカはその困難に立ち向かっていく。そしてその努力が認められ、次第にチームでも重要な役割を担うようになっていった。
「最初の頃は戦術も分からないし、ドリブルばかりしていたんです。ボランチでプレーすることが多かったんですが、自分のポジションを無視して、FWのところまで行っちゃったり。そんな感じだったので初めの頃はベンチが多かったんですが、だんだん戦術も理解できるようになって、フィジカルも強くなっていった。そういうステップを踏むなかで、評価が徐々に上がっていきました」

シノヅカの活躍もあり、チェルターノバは モスクワのユースリーグで3位になった。シノヅカの存在はロシアでも徐々に知られるようになり、2012年の夏、17歳でスパルタク・モスクワと3年契約を締結するに至った。中学時代に思い描いていた根拠なき夢を、シノヅカは見事に叶えたのだった。

ところで、ロシアのサッカーのレベルは、どのようなものだったのか。日本で平凡な選手に過ぎなかったシノヅカにとっては、衝撃的なことが多かったという。
「ドリブルが得意だったんですけど、ロシアではスピードに乗ったドリブルが全然できなくて。とにかく速いから、ボールもらった時になにもできない。あとはGKのレベルも、日本では味わったことのないくらい高かったですね。至近距離から入らないんですよ。それは衝撃的でしたね」

ともあれ、そんな厳しい環境に身を置き、研磨を積んでいったシノヅカはプロ選手としてのキャリアを歩むことになったのだ。

Text by:原山 裕平

後編へつづく