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【ワールドカップイヤー特別コラム:宮本恒靖(G大阪)】サブの屈辱、節目での機転と統率…4年の時を経て、再び大舞台に挑む(06.01.29)

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2002年6月18日
2002FIFAワールドカップKOREA/JAPAN 決勝トーナメント1回戦
日本代表 0-1 トルコ代表
試合終了後の宮本恒靖コメント:
「日本と世界の差?それは縮まったと思う。だけどあと少しだけある差をどう埋めるのか…。今は負けた悔しさの方が大きくて、あんまり考えられへんけど、とにかく個人能力を伸ばしていかないといけない」
________

 2002年6月18日。初夏にしては冷たい雨の降る宮城スタジアムで、日本はトルコに0-1で敗れた。自国開催2002年ワールドカップで最低目標だった決勝トーナメント進出は果たしたものの、その快進撃もベスト16でストップ。戸田和幸(広島)や市川大祐(清水)は人目をはばからず泣きじゃくった。大会直前に鼻骨骨折し、フェイスマスク姿で全試合に出場した宮本恒靖は悔しさをにじませつつも、淡々と話した。あれから早いもので3年半。次のワールドカップである2006年ドイツ大会まで5ヶ月を切った1月29日、2006年の日本代表が本格始動する合宿が宮崎で始まった。

 今やチームの欠くことのできないキャプテン・宮本。そんな彼も、この3年半の間にはさまざまな紆余曲折を強いられてきた。まずジーコジャパン初戦となった2002年10月のジャマイカ戦に彼の姿はなかった。右膝内側々副靭帯損傷のため代表を辞退したのだ。そしてセンターバックのスタメンには、鹿島アントラーズの秋田豊(現名古屋)と2002年メンバーの一員でもある松田直樹(横浜FM)が入った。こうして宮本は2002年ワールドカップの時よりもマイナスからの再出発を余儀なくされた。

 ガンバ大阪ユースに所属していた93年にU-17世界選手権(日本)に出場。95年にトップチームに昇格し、97年ワールドユース(マレーシア)で日本のベスト8進出の原動力となり、2000年のシドニー五輪メンバーにも名を連ねるなど、宮本のサッカー人生はいつも順風満帆なように見える。しかしそんな男にも、思うようにレギュラーを獲れなかったG大阪・新人時代の苦い経験があるのだ。

「プロ1年目は悶々としてましたよ。ヘルトが監督で、ツベイバがリべロをやってて、自分は控えのまま。サテライトの日々も長かった。その後しばらくして『じゃあ、ボランチやってみるか』といわれたけど『自分のポジションじゃあらへん』って思って積極的になれなかった。そんな感じで秋になり、ツベイバも辛島(啓珠=現松本山雅FC監督)さんもケガでいなくなって、自分にやっとチャンスが回ってきた。それが95年11月1日のヴェルディ川崎(現東京V)戦。忘れもしないJリーグデビュー戦ですね。ここから8試合連続スタメン出場したんです」

 といっても、クゼ監督が指揮した2〜3年目もボランチとリべロを行ったりきたり。20歳の宮本はどっちつかずの自分に苛立っていたという。そんな時、自信を取り戻させてくれたのが、日の丸を着けた年代別代表での戦いだった。

「特に大きかったのがワールドユース。決勝トーナメント1回戦でオーストラリアに無失点で勝ったことは自分にとってホントに大きかった」という。

奇しくも日本はこの相手とドイツ大会初戦で対戦する。宮本も不思議な縁を感じているかもしれない。とにかく、これを境に1つの壁を乗り越え、持ち前インテリジェンスに磨きをかけた彼は、日本を代表するDFに成長していくのである。

 そして2003年3月のウルグアイ戦で代表復帰を果たす。この時は秋田や森岡隆三(清水)の控えに回り、試合出場は叶わなかったが、まだ勝負は始まったばかり。宮本は虎視眈々とレギュラーを狙った。そんな弱い立場を大きく変える事件が2ヵ月半後に起きる。6月8日のキリンカップ・アルゼンチン戦(大阪・長居)で日本は1−4の大敗を喫したのだ。ボールを6割以上支配され、放ったシュートはアルゼンチンの14本に対したったの5本。まさに完敗という他なかった。衝撃を受けたジーコ監督は、“最終ライン総入替え”という大胆な策に打って出る。3日後の埼玉スタジアムで、宮本は山田暢久、坪井慶介、三都主アレサンドロ(いずれも浦和)とともに最終ラインに陣取った。そして結果は0-0のドロー。対戦相手のパラグアイがベストメンバーではなかったということもあったが、負けなかった事実を評価した指揮官は、宮本をフランスで開催されたコンフェデレーションズカップでもスタメンに据えた。

 久しぶりの世界の強豪国との戦い。大会全体を通して彼は非常に好調だった。ところが予選リーグ最終戦のコロンビア戦(サンテチェンヌ)。宮本はインサイドで遠藤保仁(G大阪)に流した相手にボールを拾われ、失点を食らうという致命的ミスをしてしまった。当然のごとく、DFは1つの失敗が命取りになるポジションである。試合後の宮本は

「一番セフティにボール返そうとしたつもりが、ボールが流れてしまった。あそこまでリズムが悪くなかっただけに、本当に悔しい…」とコメントする。

本人もせっかく手にした先発の座を失うかもしれないと覚悟したに違いない。が、ジーコ監督の信頼はその後も変わることはなかった。時間が経つごとに、中田英寿(ボルトン)がいない時は宮本が主将を務めるという1つの図式もできあがっていったのである。
 
彼の“傑出したリーダーシップ”を日本中に強く印象づけたのが、2004年アジアカップ(中国)の準々決勝・ヨルダン戦(重慶)である。国歌斉唱がブーイングでかき消されるような反日ムードが社会問題にまで発展したこの大会で日本が最も苦しんだゲーム。PK戦までもつれこみ、1人目の中村俊輔(セルティック)、2人目の三都主のシュートがバーを越えた時、宮本が主審に歩み寄り、英語で「ピッチがあまりに蹴りづらい。このまま続けたら絶対にフェアじゃない。逆サイドでやり直せるじゃないか」と主張したのだ。極度の興奮状態の中、宮本は1ヶ月前に行われたユーロ2004(ポルトガル)でベッカム(イングランド代表)が足場の悪い中のPKを2度失敗したシーンを冷静に思い出したのだという。その判断力と機転のよさがアジアカップ2連覇、そしてジーコ監督・初のタイトルにつながったのは間違いない。

 その後も重要な節目で際立った統率力が発揮された。2005年3月のFIFAワールドカップドイツ・アジア最終予選・アウェーのイラン戦(テヘラン)で1年ぶりにチームに戻った中田がプレスのかけ方をめぐって福西崇史(磐田)と意見をぶつけあった時も、宮本は両者の間に入って話をまとめようとした。このビッグマッチに敗れチームが危機に瀕した時も、すぐさま他のメンバーの意見を聞き、中田とともにジーコに4バックから3バックへの変更を願い出た。当初、主将だった中田がキャプテンマークを譲ったことからも、その絶大な存在感が分かる。

 出身地の富田林市伏山台小で児童会長、同金剛中で生徒会長を務め、サッカーでもU-17日本代表以外は全て主将を経験した宮本。「天性のリーダーシップ」という比類なき才能が、この男には備わっている。

「いつもチームや他の人のことを考えてしまう。自分のことを聞かれてもチームのことを答えていたり…。もう習性だろうね。意外とでしゃばりなところもあるし…」と本人は笑う。

そんな性格ゆえ、どこへ行っても人の上に祭り上げられる。ジーコジャパンでもまさにそうだった。所属のG大阪でも持ち前の統率力と鋭い読み、イザという時の得点力に一段と磨きをかけた。その存在感の大きさを印象付けたのが、彼らが初のJリーグタイトルに王手をかけていた2005年シーズン終盤だった。昨年10月、彼が右ひざ内側側副じん帯を損傷し、全治4週間と診断された時。チームには多大なる衝撃が走った。ナビスコカップ決勝でジェフ千葉に負け、リーグ戦でも何かが壊れたかのように勝てなくなった。そんなチームを立て直さなければならない…。宮本は脅威の回復力を見せ、瞬く間にピッチに復帰した。そして12月3日の最終節・川崎フロンターレ戦で自らヘディングシュートを決め、勝利を強く引き寄せた。劇的な優勝決定の瞬間、彼は代表でも見せたことのない大粒の涙を流す。10年間なし得なかったタイトル獲得を現実にして、蓄積してきた思いが堰を切ったようにあふれ出たのだった。

 2002年以降も多くのものを吸収し続け、宮本は人間的にも選手としても大きくスケールアップした。それは誰もが認めるところだろう。けれども勝負の世界は厳しい。2度目のワールドカップ本大会出場がまだ確約されたわけではないのだから。オーストラリア、クロアチアという平均身長185cmを超えるチームと対峙する場合、高さとスピードが勝負の分かれ目になってくる。また2005年Jリーグ通算成績を見ても、G大阪の総失点は58点。最小失点の浦和より21点も多い。これはもちろん宮本1人の責任ではないが、彼がリードする最終ラインであるのもまた事実。どんな相手でも確実に止め、1つの失点にも厳しくなることが2度目の世界舞台に立つ条件といえる。

「世界とのあと少しの差をどう埋めるのか」という2002年大会で突きつけられた命題の答えを出すためにも、2006年ワールドカップドイツ大会に出場しなければならない。その為にも、残り5ヶ月間にある、日本代表、Jリーグでの一戦一戦の戦いが非常に重要な意味を持ってくる。

2005.1.29 Reported by 元川悦子
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