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| 前節でJ2優勝を決め、11/13のホームゲーム後にサポーターと記念撮影 |
2003年の絶望、それは2004年の希望となった。03年、まさかの降格で京都に動揺が走ったものの、1年でのJ1復帰を目標に、資金力のある京都は選手の流出防止、経験豊富な監督の招へいを実行してチームの立て直しに取り組んだ。
監督にはFIFAワールドユース選手権アルゼンチン大会(2001年)のU-20日本代表監督経験があり、何より2002年にセレッソ大阪を1年でJ1に昇格させた西村昭宏氏を招き、黒部光昭、松井大輔、手島和希ら主力選手の残留にもほぼ成功した。さらに、J1でも常に得点王争いに絡んでくるほどのゴールゲッター崔龍洙を獲得して周囲を驚かせた。メディアは「J2は長丁場、しかもJ2特有のしっかり守ってカウンターという戦い方に熟知していない京都が勝てるかどうか」と書きつつも、1年で昇格できるだろうと簡単に判断を下す。ファンは期待に胸膨らませ、希望を持ってスタジアムに足を運んだはずだ。
J1復帰、しかもダントツの成績で…。希望の膨らんだ04年シーズンは開幕した。しかし、希望は簡単に疑問へと変貌した。勝ちきれない京都でファン・サポーターが眼にしたのは、崔と黒部が得点を重ねるシーンではなく、勝点1を積み重ねるのがやっとの京都だった。球際の弱さか、ちぐはぐな連係か、守備連係のもろさか、その全てか。とにかく勝点3を獲得するのにもがいていた。前半はいい。しかし、後半になると逆転されるバランスの悪さを露呈。試合後、相手選手から「個人能力は高いかもしれないが、ウチのほうがいいサッカーをしている」そんなコメントが吐き出された。京都は主力選手のケガが続出し、その穴を埋められずチームは勢いに乗れない。選手補強の欠陥を露呈した。
チームの改変は急務だ、誰もがそう思っただろう。チーム関係者も、何よりスタジアムに訪れる多くの観衆が。13節で横浜FCと引き分けてシーズン最低の9位にまで転落すると、ファン・サポーターからは監督交代の声が上がり、クラブの出した答えもファンと同じ監督の交代だった。
この低迷期を生んだいちばんの原因は「ビジョンのなさ」だったのではないだろうか。レベルの高い選手を用意しても、チームとしてどう攻めたいのか、そしてどう守りたいのかが見えてこない。システムを3-5-2と4-4-2を使い分けると言っても、ファンはおろか選手もその意図を理解していないかのように見えた。
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| 2004年途中から指揮を執ることになった柱谷幸一監督。弱点を補強しつつ、2005年の優勝へ導いた |
しかし、シーズン途中で松井のフランスリーグ移籍による離脱や黒部の負傷などメンバー繰りなどで苦しみ、一気に順位を上げるほど波に乗れなかった。しかも川崎Fや甲府などJ1を争うライバルたちとの直接対決を制することも出来なかった。39節では3位・山形(勝点63)と5位(勝点57)で直接対決を迎えたが、0-1と競り負け昇格争いから大きく後退。結局、43節に1年でのJ1復帰の可能性はなくなった。
柱谷監督は就任時から京都のフィジカルの弱さを指摘し改善を図ったが、シーズン途中からの就任では監督の望む状況には持ち込めなかった。このことが、川崎Fや山形などとの直接対決の敗因になった一面もある。
その弱点を補うために、2005年シーズンへの準備は開始された。フィジカル強化のためにブラジルからファビアーノ・フィジカルコーチを招へい。決定力を上げるためにブラジル人2トップのパウリーニョとアレモンを獲得。そして、新しい選手を獲得し、チーム内競争を促した。弱点を見極めそれを補う。当たり前に見えることだが、2004年シーズンのスタート時には1年でのJ1復帰を夢見るあまり、それを指摘する声はなかった。
2005年、京都の準備は満足の行くものだったと柱谷監督は振り返った。まさにその通りの戦いを開幕から見せたチームは、リーグ終盤に向かうほど熟成し圧倒的な強さをファンに見せた。
2004年の試練…それは昇格しか目に映らなかったチームに、J1で戦うことを意識したチーム作りをさせるために必要だったのかもしれない。もし2004年シーズンに京都が何とか昇格していたとしても、果たしてJ1に残留出来ただろうか。1年目の失敗は、確実に京都に教訓を与えたのだ。
2006年に向けて、柱谷監督は20%、30%、さらにポテンシャルを上げるように選手に指示をしたという。J1での残留のためにはそれが必要だと。もうJ2へ逆戻りはしたくないはずだ。J1での京都の戦いに希望を膨らませたい。
◆京都パープルサンガ:梅本徹 代表取締役社長インタビューは【こちら】
以上
Reported by 武田賢宗














