2005年8月16日
イラン戦前日のコメント
川口能活選手(磐田)コメント
「30歳になったけど特に気持ちは変わらない。『まだ30なのか』『もう30なのか』という気はするけど、GKはこれからが円熟期。自分のスタンスややるべきことは変わらない。今まで通りやっていくだけです」
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日本代表がFIFAワールドカップドイツ・アジア最終予選のラストマッチ、イラン戦(横浜)に挑もうとしていた2005年8月15日、川口能活(磐田)は30歳の大台を迎えた。プロ選手なら多かれ少なかれアップダウンはつきものだが、川口の場合はその上下動が際立っている。Jリーグデビューは2年目の95年4月26日の柏レイソル戦。この頃の横浜には日本代表の守護神でもある・松永成立が君臨しており、川口の公式戦出場はまだまだ先だと思われていた。ところが指揮官だったソラリと松永が衝突。急遽、メンバーから外されることになり、まだ19歳の若きGKがピッチに送り出されたのだ。これを機に、彼は一気にスターダムへとのし上がっていく。サントリーステージを制した横浜はヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ1969)とのチャンピオンシップに勝ち、悲願の年間タイトルをつかんだ。この勢いのまま、96年春のアトランタ五輪最終予選でも大活躍。日本サッカー界が28年間果たせなかった五輪出場権獲得の立役者となった。そして96年夏、本大会初戦で彼らは最強軍団・ブラジルを撃破する。打たれたシュートは27本、日本が放ったシュートはたったの2本だったが、川口は「最後の砦」となって驚異的な集中力を発揮し続ける。「マイアミの奇跡」と呼ばれる歴史的一戦での研ぎ澄まされたパフォーマンスは今も多くの人々の脳裏に焼きついて離れない。
彼は当時を振り返り「サッカーだけやってればいいと思ってた。いわゆるサッカーバカでしたね」と苦笑いするが、並外れた集中力を持ち続け、着実にフル代表へとステップアップする。97年2月タイで開催されたのキングスカップ・スウェーデン戦で国際Aマッチデビューを果たすと、その後のフランスワールドカップアジア予選では休むことなくピッチに立ち続けた。特に過酷だった最終予選では監督・加茂周がカザフスタン戦後にアルマトイで解任されるというショッキングな出来事も起きた。この勝てるはずだったカザフスタン戦に引き分けた後、勝ちきれない自分たちへ苛立ちをどうしても隠せず、川口は報道陣のいる前で「バッカじゃないの」と吐き捨てた。当時の川口は、若さゆえにこんな激しい言動を見せることが多かった。怒りばかりでなく喜びや悲しみもストレートに出した。ジョホールバルで日本が遂にフランス行きを決めた時には歓喜にむせび、逆にフランス大会最終戦・ジャマイカ戦に敗れた後には人目をはばからずに号泣した。そんな素直さと人間臭さも彼の魅力であった。ここまでの間、川口はまずまずの成功を収めたといっていいだろう。本人も「日本のサッカー史に残る出来事につねに自分が直面してたことはすごく自信になっている。誇れることです」と話す。
しかし次の日韓共催のワールドカップまでの期間は何もかもが順風満帆とは行かなかった。フランス大会の後、日本代表指揮官に就任したトルシエは、前監督の岡田武史と違って彼に絶対的信頼を寄せるわけではなかった。楢崎正剛(名古屋)と徹底的に競わせ、2000年シドニー五輪のオーバーエージ枠には楢崎を選んだ。そんな状況下でもJリーグではコンスタントに活躍し続け出場試合数を順調に伸ばし、2000年にはステージ優勝も成し遂げた。代表でも数少ないチャンスだった2000年アジアカップ(レバノン)、2001年4月のスペイン戦(コルドバ)、2001年コンフェデレーションズカップ(日韓共催)で立て続けに活躍。ついに正守護神の座も奪回。
それでも25歳を過ぎた男の中ではどこか消化不良感のようなものが残っていた。こうした思いが2001年秋のイングランド・ディビジョン1・ポーツマス移籍につながる。自ら進んで環境を変えることで、自分がどこまでできるかを試してみたかったのだろう。
「Jリーグで1つ1つパフォーマンスを上げなかったら、イングランドでプレーするチャンスもつかめなかったし、代表でやることもなかった。234試合(※)も場数を踏んだからこそ、次にステップアップできた。これからどうなるか分からないけど、僕は戦いに行くんだし、日本に帰らない覚悟でいくつもり。プラス遊び心を忘れず、アグレッシブなプレーをしていけるようにしたいです」
横浜でのラストマッチとなった2001年10月のセレッソ大阪戦。彼は感謝の気持ちを表すと同時に、これからやってくる厳しい戦いに正面から向き合う強い決意を口にした。同じ年に欧州へ渡った小野伸二(浦和)が成功への足がかりをつかんでいたこともあり、周囲は川口の行く末をやや楽観視していた。
けれども、サッカーの母国は英語もきちんと話せない外国人にそう甘くはなかった。最初の11試合にスタメン出場する機会を与えられただけで、川口は下げられた。悪循環に陥ったチームの全ての責任を負わされているかのように、その後はチャンスさえ与えられなくなった。本人は「このまま終わったら日本を離れた意味がない」と若手選手と自主トレに励むなど、できる限りのことはした。しかしポーツマスでの出場機会がめぐってくるどころか、日本代表でも立場は危うくなった。さらに日韓共催ワールドカップを目前にして負傷。「川口が外された理由はスウェーデン戦(大会直前の最後のテストマッチ)に間に合わなかったから」と当時の日本代表GKコーチ・川俣則幸氏が話していたように、この怪我も痛手となり2度目の世界舞台にはピッチに立てずに終ってしまった。
屈辱と不完全燃焼感を胸に川口は再出発をする。が、2002年大会後も苦悩の日々は続いた。ポーツマスでの状況は一向に改善の兆しが見えず、2002年10月に発足したジーコジャパンにも招集されない。当時の彼は4年後のドイツワールドカップを見据える余裕など持てなかった。それでもピッチに立てない異国生活で学んだことも少なくなかった。「Jリーグにいた頃は何でも人がお膳立てしてくれるけど、ポーツマスでは自分から聞かないと練習予定さえ伝わってこない。日本での生活がいかに恵まれていたのかよく分かった。言葉も一生懸命勉強して少しはコミュニケーションも取れるようになった。自分がいかに多くの人に支えられているかも実感しましたね」
2003年秋にはデンマークのノアシャランへ移籍。日本代表でも出場機会を与えられ始める。迎えた2004年、彼はレギュラーに復帰。アジアカップ(中国)で、その地位を絶対的なものにする。準々決勝・ヨルダン戦での4連続PKセーブは今も語り草になっているほどだ。丸3年間もコンスタントにトップリーグで戦っていなかった選手とは思えない集中力を発揮し続けた。若い頃のように感情の起伏を表に出すこともなくなり、つねに冷静さを失わない選手に変貌した。
「1つ1つのプレーは日々の積み重ね。普段やっていることが結果につながる。僕はいつも自然体でプレーできるように考えてます」と語り口も確実に柔らかくなった。
この半年後にはJリーグに復帰。彼自身、4つ目のクラブであるジュビロ磐田で再出発を切った。同時に結婚もし、家族という支えもできた。「今はメリハリを大事にしています。普段の生活はリラックスしてサッカーのことを考えず、グランドに入ったら100%の出すようにね。生活はサッカーの基盤だし、1人で戦っているわけじゃない。妻を初めとしていろんな人に支えられてこそ、いい準備ができるんです」と彼は最近、ふと本音を漏らした。つねにサッカーだけを考え、自分をギリギリのところまで追い込んでいた若い頃とは違い、今は1人の大人としての精神的余裕を持ちつつプレーしている川口。その心持ちの変化が最近の落ち着いたパフォーマンスにつながっているのかもしれない。
とはいえ、本大会は冷静さだけでは乗り切れない。かつてのような荒々しさや喜怒哀楽を表に出すべき時も必要かもしれない。3戦全敗で帰国せざるを得なかった8年前のフランス大会を経験している男は、今大会、自分が何をすべきかをよく理解しているはずだ。
果たして2ヵ月半後のドイツワールドカップは、4年前に立てなかったピッチに立ち、そして8年前には果たせなかった勝利とチームの目標である1次リーグ突破、ベスト8進出に貢献するという川口能活にとっての「3度目の正直」になるだろうか…。
※ポーツマス移籍前までのJリーグ、ヤマザキナビスコカップ、天皇杯を合わせた出場試合数
2006.3.29 Reported by 元川悦子
J’s GOALニュース
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