今日の試合速報

チケット購入はこちら

J’s GOALニュース

一覧へ

【ワールドカップイヤー特別コラム:小笠原満男(鹿島)】 ドイツでは「ボールを回しながらチャンスを作るサッカー」で勝負したい!(06.05.09)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
2006年3月30日 
エクアドル戦後のコメント
「アウトサイドが高い位置を取れると3−5−2をやる意味がありますよね。でも僕は4−4−2の方が長い間やってきて慣れている。ボールを回しながらサイドも上がってスペースを作り決定機を演出するというのが日本のサッカー。それをするためにも4−4−2の方が面白いかなって気がしますけどね」
---------------------------------

「私の哲学は4−4−2だ」と公言するジーコ監督を師と仰ぎ、師のサッカー哲学を最も理解する選手の1人が小笠原満男(鹿島)だろう。98年に岩手・大船渡高から鹿島アントラーズ入りし「ジーコイズム」の担い手として10年間、チームを引っ張ってきた。2000年のJリーグ、ナビスコカップ、天皇杯の3冠獲得に貢献。2001年からは5年連続Jリーグベストイレブンに選ばれるなど、国内の舞台では飛びぬけた実力を示し続けている。

 日本代表入りはトルシエジャパン時代だった。2002年3月21日のキリンチャレンジカップ・ウクライナ戦(長居)で国際Aマッチデビューを果たし、2002年日韓共催ワールドカップの代表メンバーにも入った。ところがピッチに立ったのはチュニジア戦(長居)のわずか7分間だけ。95年U−17世界選手権(エクアドル)の頃から自分の前を走っていた同期の稲本潤一(ウエストブロミッチ)や小野伸二(浦和)がチームの大黒柱として活躍する傍らで、小笠原は「傍観者」だった。「あれじゃ、大会に参加していないのと同じ」と本人ものちに淡々と話したことがある。

 ジーコジャパン発足後も立場はなかなか変わらなかった。新チーム初戦となった2002年10月のジャマイカ戦(東京・国立)でスタメン出場した中盤は稲本、小野、中村俊輔(セルティック)、そして中田英寿(ボルトン)。「黄金の中盤」と称される彼らの間に割って入る余地は当時の小笠原にはなかった。ブラジル人指揮官は手元に置いて育てた彼の能力を熟知していたはずだが、あくまで「サッカーの本場・欧州での経験と実績」を重視したのだ。

 小笠原がチャンスをもらえるのは欧州組が不在の時に限られた。2003年東アジア選手権(日本)、あるいはドイツワールドカップアジア1次予選が始まる直前のマレーシアやイラクとの親善試合がその舞台となった。「欧州の選手が来れば出れなくなる。それが悔しくて何とかしなきゃいけないってのはあった」と話す彼だが、出場する試合では「可もなく不可もなく」というプレーが続いた。国内組の中では名実ともにナンバーワンといえる存在なのに、なぜか代表では強烈な印象を残せない。2004年アジアカップ(中国)でもMVPを獲った中村の控えとしてベンチを温める日々が続いた。「試合に出てないとなかなか難しいことを痛感した。最後の方は頭も痛くなってきて、酸欠みたいになった」と準決勝・バーレーン戦(済南)後も浮かない顔。「自分自身に納得がいかない」というモヤモヤ感を小笠原はつねに感じさせていた。

 だが2005年に入ると彼を取り巻く状況が急変する。欧州組にこだわって1次予選を戦った結果、格下相手に大苦戦を強いられた反省から、ジーコ監督は最終予選初戦・北朝鮮戦(埼玉)で国内組を先発させる決断をした。
「僕の場合、トルシエの頃から5年くらい代表に呼ばれてはベンチで試合を見るだけという状況が続いた。それがようやく変わりつつあるのかな。チーム的にも自分的にも大事な試合になる。出れない期間も頑張ったし、いつかチャンスが来ると思っていた。それが今なんだと思う」と決戦を翌日に控えた小笠原は珍しく強い意気込みを口にした。そして開始4分に自ら右足FKをゴールに叩き込む。後半になって相手に押し込まれ、中村と高原直泰(ハンブルガーSV)を投入せざるを得ない状況に陥りはしたが、小笠原は日本の中心選手と呼ばれるに相応しい仕事をした。

 しかし1度結果を出したくらいで指揮官の信頼は完全に勝ち取れない。続く3月のイラン戦(テヘラン)では中田の復帰もあって先発落ちを強いられた。ホームに戻ってのバーレーン戦(埼玉)でも出番なし。全てが元の木阿弥かと思われた。けれどもJリーグで並外れたキレを見せ続けていた小笠原は自分の力で運を引き寄せる。ドイツ切符をかけた最終予選の天王山である6月のバーレーン戦(マナマ)前日に小野が右足を骨折。代わって先発組に抜擢されたのだ。柳沢敦(鹿島)を前線、中田をシャドウストライカーに置き、トップ下に中村、ボランチに小野と福西崇史(磐田)を配する3−5−2を考えていたジーコは方向を転換。柳沢を1トップに据え、その背後に中村と小笠原を並べ、ボランチに中田と福西を置く3−6−1に戦い方を変えた。

「試合に出ている選手は一瞬で意思統一ができているから問題ない。今さらいろんなことを突き詰める段階じゃないし、1人がボールを追いかけたら連動していく気持ちを持ってお互いを見ながらやればうまくいく」

 突然の大一番出場にも小笠原は落ち着いていた。Jリーグで数々のタイトルを獲り、99年ワールドユース(ナイジェリア)準優勝も経験している彼は多少のことでは動じない。その強靭な精神力が最高の結果をもたらす。前半34分だった。中田のスルーパスを受けた中村が小笠原にボールを渡し、そのままワンツーをするかと見せかけて前へ走った。これでマークが下がる。フリーになった小笠原はやや遠めの位置から右足で強引にシュートを放ち、貴重な1点をもぎ取ったのだ。

「みんなが連動してマークを引っ張った。ワンツーの選択肢もあったけど、それまでパスが多かったんで、思い切って打ってみようかと思った。その時間帯までのゴール前までは行くけど積極的に打っていなかったし。気持ちでつかんだ1点だった」

と彼は興奮気味に話した。あまり多くを語らない男が15分以上も取り囲んだ記者と対峙し続けた。そんな立ち振る舞いも「自分は代表の主軸なんだ」という自覚の表れだったのかもしれない。この試合で彼の存在価値は大きく変化する。北朝鮮戦(バンコク)で3大会連続ワールドカップ出場を決めた直後のコンフェデレーションズカップ(ドイツ)でも、ジーコ監督は彼をスタメンに起用し続けた。小笠原はキープ力が高く簡単にボールを失わない。自らドリブルで前に出てゴールも奪える。その得点能力の高さは2005年J1で11点を挙げていることを見てもよく分かる。その後、戻ったJリーグで鹿島の5年ぶりのタイトル奪回は叶わなかったが、もしも鹿島が優勝していたらMVPは小笠原が選ばれただろう。

 迎えたワールドカップイヤーの2006年は、これまで以上にサッカーにまい進している。1月にはイングランド・ウエストハムの練習に参加し、宮崎合宿、アメリカ遠征、国内での親善試合にドイツ遠征とすさまじい勢いで本大会に向かっている。「試合に出られないのが嫌だから」と本人は負けず嫌いな一面をのぞかせる。「傍観者」だった2002年大会の悔しさをどうしても払拭したいという強い思いが彼を突き動かしているのだろう。この意欲は師であるジーコ監督にも確実に伝わっている。2月のボスニア・ヘルツエゴビナ戦(ドルトムント)では長年のライバルである小野を抑えて自分が先発でピッチに立った。レギュラーから外れた小野は悔しさからか報道陣の前を素通りした。2人の競争はジュニアユース時代から10年以上も続いてきただけに、小笠原は新たな一歩を踏み出した言っていいだろう。

 とはいえ、本番でベンチに舞い戻ったら全く意味がない。本人もそれが分かっているからJリーグでもフル稼動している。他の代表組が負傷で何試合かを休んだりする中、小笠原は鉄人のように戦い続ける。鹿島は今季まだ首位に立っていないが、勝っている時は必ずといっていいほど彼が絡んでいる。パスで攻めの起点を作ったり、セットプレーで得点を演出したりと、どんなにコンディションが悪くても「勝負を分ける仕事」はする。小笠原は「つねに計算できる選手」になったのだ。こうした日々の積み重ねがドイツでの活躍につながることを本人も十分理解している。

「ワールドカップでは日本らしいボール回しで組み立てるサッカーで勝負したい。特にブラジル戦は楽しみ。コンフェデで戦った時、局面ではさすがだなと思ったけど、相手は手を抜いていたと思う。今度はロナウジーニョ(バルセロナ)が必死になってスライディングするぐらいの試合をしたいよね」

チームの中心選手として戦い、自分が納得できるプレーを示せるのか。開幕まで35日後に迫ったドイツワールドカップを小笠原満男のサッカー人生の集大成にしてほしい。

2006.5.8 Reported by 元川悦子
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

旬のキーワード

最新動画

詳細へ

2025/12/21(日) 10:00 知られざる副審の日常とジャッジの裏側——Jリーグ プロフェッショナルレフェリー・西橋勲に密着