リーグ戦とはクラブの総合力と総合力の戦い。J2降格という事実は単にチーム力が足りなかったということだけに留まらず、クラブが疲弊し、問題を抱えていることをも意味している。そういう意味では、たとえ名監督と呼ばれる人物を指揮官に据え、名のある選手を中心にチームを編成したとしても、クラブが抱える構造上の問題を解決しない限り、一度降格したクラブが再びJ1の舞台に立つことは難しい。
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| 2005年最終節終了後にJ1昇格の記念撮影をする選手・スタッフ |
トンネルの出口を見つけられなくなった福岡は、当時、代表取締役専務の要職にいた前野文雄が、サンフレッチェ広島ユース監督の中村重和(現チーム統括グループ副長)を監督として招へいする。ギリギリまでに追い込まれた福岡が、ようやくクラブの構造改革に着手。育成型クラブへの転身を決定したからだ。就任してからの成績は2勝5分13敗。しかし、もはや目先の結果にとらわれているわけにはいかなくなった福岡は、辛抱強く若い選手へとメンバーを入れ替えていった。
そして翌年、中村は強化管理部長に就任。新監督には、神戸の指揮を執っていた松田浩を招いた。この年「新生アビスパ」と銘打ったクラブは、ここから徹底して若手を育成することに注力。本格的にJ1復帰へ向けての道を歩き始めた。育成型クラブへの転身の裏には、J1で戦っていくための潤沢な資金を確保できないという事情もあってのことだったが、目先の勝利を優先していた従来のやり方を変えて育成型クラブを目指すことを明確にしたことが、最終的には5年ぶりのJ1復帰につながった。
■徹底してチームに植えつけたディシプリン
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| 福岡のチーム再生に、松田監督の果たした役割は大きい |
また、就任初年度はともかく「2年でJ1」を達成できなかった2004年シーズン、思うように勝ち星を重ねられなかった2005年シーズンは、内外から様々なプレッシャーがあったことは想像に難くない。そんな中、最終的に福岡は松田監督に3年間を預けきった。それは、行き当たりばったりの運営を繰り返した過去の反省から来るものだったのかもしれない。この決断もJ1復帰を果たした大きなポイントだった。
しかしながら、福岡のJ1復帰は万全の体制の中で生まれたわけではない。チームは順調に育っていたが、2005年シーズンを迎えるにあたって、米田兼一郎(→京都)、増川隆洋(→名古屋)という中心選手の移籍という事態が起こった。2人は福岡の育成の成果の代表格。決して手離してはいけない選手だった。しかも、その代わりとなる選手を獲得することも出来なかった。育成型クラブとしては、あってはならないこと。全てを壊しかねない出来事だった。
それを救ったのは、チームに植えつけられたディシプリン。バックアップの選手までに浸透していたディシプリンにより、チームは誰が出ても安定感を失わず、全員の力で2人の穴を埋めた。また、J1が18チームになったことで2005シーズンは降格チームがなかったこと、好調が伝えられていた甲府がスタートダッシュに失敗したこと、監督を代えた仙台がチームとしてまとまるまでに時間がかかったことなど、外的要因も福岡に有利に働いた。(文中敬称略)
◆アビスパ福岡:新たなスタートの始まり(2)につづく
Reported by 中倉一志














