今日の試合速報

開幕招待
開幕招待

チケット購入はこちら

J’s GOALニュース

一覧へ

デットマール・クラマー氏 来日記念記者会見コメント(07.05.16)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
★from CLUB -福岡- デットマール・クラマー氏 来福のお知らせ
----------

 1960年代、日本サッカー界が世界で全く無名だった頃に日本代表チームのコーチとして強化に携わり、東京五輪でベスト8、メキシコ五輪で銅メダルを獲得した功績は、いまもなお、オールドファンの記憶に鮮明に刻まれている。また、五輪での活躍だけではなく、リーグ戦の創設、プロ化、指導者養成の重要性、年代別の代表チームなどの重要性を説き、現在の日本サッカー界の仕組みの基礎を作った名伯楽でもある。40年ぶりに訪れた福岡での記者会見は、席を立ちあがって身ぶり手振りで熱弁をふるうというものだったが、その一部を紹介する。

Q:久しぶりのリトバルスキー監督との再会でしたが。
「彼との間には多くの素晴らしい思い出があります。初めて会ったのは彼が16歳の時ですが、最も強く印象に残っているのは、彼が素晴らしくスキルフルな選手だったということです。ヨーロッパには背の高い、体の強いDFが大勢いますが、彼は背も低く、軽量な選手であったにもかかわらず、そういう選手たちとの1対1の場面で高い技術を生かして勝ってきました。

 以前、日本から体の強い選手を探してほしいといわれた時、私はノーと言いました。なぜなら、技術のある選手であれば、どんな状況に置かれてもプレーできるからです。ですから、私は選手を見る時に技術レベルを必ず見ます。ただ、技術というものは、ある面では天からの授かりものだったりもします。それを授かっている人も、そうでない人もいるものです。しかし、授かっているというだけでは十分ではありません。それをさらに高めていくことが必要ですし、どんな局面においても自然と発揮できるということが必要です。ですから、繰り返しトレーニングを積むことが完璧な技術を身につけるための母親だと言えるのです。

 私が指導した選手の中にカール・ハインツ・ルンメニゲ(元・西ドイツ代表)という選手がいます。彼が私のところにやってきたのは18歳の時。ドリブルが得意な選手でした。ただ、左足はほとんど使えず、金髪が乱れるのを嫌って(笑)ヘディングもあまりしない選手でした。そんな彼に、『私は代表選手になるまでお尻をたたき続けるぞ』とはっぱをかけたものです。そして彼は2年間にわたって、9:00と15:00、それと夜の練習も併せて1日3回のトレーニングを週に4回やり続けました。2年後、彼は代表選手に選ばれ、そして、彼にとって初めての国際試合となったイタリアとの試合で最初のゴールを決めたのですが、それは左足でのゴールでした。そして、その後は多くのヘディングシュートも決めたのです。

 また、釜本選手(現・日本サッカー協会 副会長)が私のところに来た時は、背が高かったのですが少し脂肪が付いていました。それで私は彼のことを北海道の熊と呼んでいたものです。そんな彼が私の誕生日にアルバムをプレゼントしてくれたのですが、そこには『北海道の熊にはなりたくない』と書かれていたのです。その後、トレーニングを積んだ彼はメキシコ五輪で得点王に輝く選手になったのです。

 天から授かった才能を持っていても、その才能を成長させなかったら何も残りません。まずは才能を見つけること。そして、それを成長させるためにトレーニングを重ねること。それが最も大事なことです。そして、それが私が60年代の日本でやったことです」

Q:福岡の練習をご覧になって、どんな印象を持たれたでしょうか?

「私が60年代から日本のサッカーと長くお付き合いさせていただいていることは、皆さんもご存じだと思います。ですから、私の眼はレントゲンのようなものです。すべてのものを見通すことができます。素晴らしい選手がいたと思います。しかし、十分に余裕がある状態で10本ほどボールを蹴っていましたが、何人かの選手はチームメイトのところへ思ったようにボールを届けられないようでした。そういう時、私は気長ですから、そばに近づいて行ってこう言うでしょう。『あと5本のチャンスを与えよう。でも、チームメイトが待つところへボールを届けられなかったらお尻を蹴りあげるぞ』と。

 しっかりと理解していなければいけないことは、彼らはプロの選手であり、これが職業だということです。趣味ではありません。日本の選手にもよくいいましたが、『いい』というだけではだめなのです。『もっといい』ということが必要なのです。そして、口で言うだけではなく、実際に行動に移すことが大事なのです。素晴らしいプレーができるようになるまでには時間がかかります。しかし、時間をかけずに素晴らしいプレーをしようとしても、それは無理というものです」

Q:いい選手、いいチームになる条件は何でしょうか?

「私は5年間、中国で指導をしたことがありますが、各地のサッカースクールを見て回ったとき、入団テストで子どもたちにリフティングをさせていました。しかし、何時間もリフティングができたとしても、それがいい選手になれるということではありません。リフティングをずっと練習すれば、いいリフティングのできる人にはなれるでしょう。けれども、いい選手になるためにはサッカーをしなければなりません。それで私は入団テストにリフティングをさせることをやめさせました。

 サッカーにとって最大のコーチとは試合です。試合を見ればすべてのことを私たちに教えてくれます。試合をして、それをコーチにしてまた練習をする。練習をよりよいものにすれば、もっといいゲームができるようになります。単に試合をして、練習をして、試合をするのではなく、試合をして、練習をして、さらに前の試合よりもいい試合をすること。それが大事です。本を読む必要などはないのです。試合を客観的に見て、そこからしっかりと学ぶこと。そして、何回も、何回も、何回も繰り返して練習をすること。たとえ眠くなったとしても練習をすることです。そうすることによって試合の中にオートマティズムが生まれ、よりよい試合ができるようになるのです。

 それとサッカーとは本当にシンプルなものです。シンプルにプレーすることがサッカーで勝つ秘訣です。複雑なことをすることは負けることを意味します。何度も書いたり、何度もしゃべったりしているだけではだめです。とにかく試合を見て、そこから学んでトレーニングを積むことです」

以上

●デットマール・クラマー氏(Dettmar Cramer) プロフィール
1925年4月4日、西ドイツ・ドルトムント生まれ。
1960年、東京オリンピックに向けた強化・指導にあたるため日本代表コーチとして来日。
以降、わが国の強化、指導者育成、ユース育成等の礎を築き「日本サッカーの父」と称される。
メキシコオリンピック(1968年)ではアドバイザー的役割を果たし、日本の銅メダル獲得に寄与。
1971年勲三等瑞宝章、1996年日本サッカー協会75周年記念功労賞。

選手としては、ドイツ国内の複数のクラブでプレーしたが、怪我のため選手生命は短かった。
1951年に引退後はコーチ業への道に進む。
1960年 日本サッカー協会の依頼により、東京オリンピックを控えた日本代表の指導のために来日(監督としてではなく、コーチとしての来日)。
当時の日本代表はリフティングも正確にできなかったので、基本練習を徹底的に教え込んだ。
この当時の教え子に釜本邦茂や杉山隆一らがいる。
高い向上心を持ちながら、指導者に恵まれていなかった日本代表は、クラマーの指導により、東京オリンピックで強豪アルゼンチン代表を退けベスト8の快挙を成し遂げる。

1964年 東京オリンピックを終え、西ドイツに帰国。
1967年 FIFA公認のコーチとなり、世界各地でサッカーの指導にあたる。
1968年 日本代表がメキシコオリンピックで、開催国のメキシコ代表を2−0で退け銅メダルを獲得する。
クラマーに教えられた技術や哲学と、海外サッカーに聡明な長沼 健監督と岡野俊一朗コーチを中心とする東京以来の変わらぬメンバーへ戦術を指導した。

1969年 日本にて、「FIFAコーチングスクール」を開講。アジアの 12協会から42人の受講者が集まった。
1974年 FIFAコーチを引退。
1975年 バイエルン・ミュンヘンの監督となる。同年、UEFAチャンピオンズカップで優勝。
1976年 UEFAチャンピオンズカップに2度目の優勝。その後も監督として、いくつかのクラブチームを率い、監督引退後は指導者の育成を行っている。          

2005年 日本サッカー協会が制定した表彰制度「日本サッカー殿堂」 2005年第1回受賞者になる。
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

旬のキーワード

最新動画

詳細へ

2025/12/21(日) 10:00 知られざる副審の日常とジャッジの裏側——Jリーグ プロフェッショナルレフェリー・西橋勲に密着