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Jリーグ創設から早15年、当時は10チームによる1リーグ制だったものの、現在は2リーグ制へとその幅を広げ、クラブ数も31にまで増えた。もはや、半数以上のクラブがJリーグ創設を知らないわけである。そんななか浦和レッズはJリーグ発足時より参加している10チームのひとつである。元を辿れば、前身の中日本重工サッカー部としてチームが立ち上がったのは1950年のこと。その後、1952年に新三菱重工神戸サッカー部へ、1964年には三菱重工業サッカー部へと改称し、1965年に開幕した第1回日本サッカーリーグから参加を続けてきたのである。
当時のスターといえば、1968年、日本のメキシコ五輪銅メダル獲得に貢献し、釜本邦茂(ヤンマー)との名コンビで名を轟かせた杉山隆一を挙げなければならない。杉山は1964年の東京五輪においても、アルゼンチン戦で電光石火のドリブルから先制ゴールを決めて歴史的勝利を呼び込んだ左サイドのスペシャリストだった。杉山の特長は左サイドをスピードに乗ったドリブルで駆け上がっての正確なクロスにあり、その素早い攻撃は、後のチームへと受け継がれていったともいえるだろう。不思議とレッズの近年のFWには、福田正博、岡野雅行、永井雄一郎、田中達也とスピードを売りにする選手が多く出てきているのは、決して偶然ではないかもしれない。
また、その杉山とともに、日の丸を背負い東京五輪に出場し、メキシコ五輪銅メダル獲得に貢献したGK横山謙三、MF森孝慈も当時の三菱を支えた名手である。ふたりはともに、のちに日本代表監督を経て、浦和レッズでも監督、ゼネラルマネージャーを務めることになる人物で、長きに渡ってクラブを支えてきたといえる。杉山を含めた3人は、1969年の日本リーグ初優勝に貢献。その後も三菱は、73年、78年、82年と4度のリーグ制覇を果たしているのである。日本リーグ時代、三菱は古河(現ジェフユナイテッド市原・千葉)、日立(現柏レイソル)と並んで、丸の内御三家の一画を成し、リーグ運営の中心にいたといえ、通算最多勝利、通算最多勝点を記録しているなど、つねにリーグをリードする存在だったといえるだろう。
現在の日本サッカー界を見渡せば、OBの姿も多く目にすることができる。大仁邦彌(現日本サッカー協会副会長)、犬飼基昭(前浦和レッズ((株)三菱自動車フットボールクラブ)社長、現日本サッカー協会常務理事、現Jリーグ専務理事)、落合弘(現浦和レッドダイヤモンズ・ハートフルクラブキャプテン)、藤口光紀(元日本代表、現浦和レッズ((株)三菱自動車フットボールクラブ)社長)らは皆、三菱で現役生活を送った選手たちである。1980年代には、原博実(のちに浦和レッズ、FC東京で監督を歴任)がエースとしてチームに君臨。三菱一筋でプレーし、通算192試合出場65ゴールという記憶を残している。原は日本代表でも「アジアの核弾頭」の異名を取るなど活躍し、75試合に出場、歴代3位の37ゴールという数字を挙げている。三菱は1989年に初の2部リーグ降格を経験するも、その後レッズを代表する選手に成長する新人の福田正博(得点王:26試合36ゴール)や広瀬治などの活躍で1シーズンで1部復帰。1990年、1部復帰とともに正式名称を三菱自動車工業サッカー部と改称し、翌1991年にはプロ化の動きに伴い、Jリーグ正会員となったのである。
今でこそ、Jリーグ・トップクラスの実力を誇り、全国にその名をとどろかせるレッズだが、Jリーグ元年の1993年から94年にかけては2年連続で最下位に沈むなど、「Jリーグお荷物」と揶揄されるなど、苦悩のスタートとなったのだ。サポーターの人気だけは当時から最強だったものの、結果は伴わず。93年のサントリーシリーズはわずか3勝(15敗)に終わると、ニコスシリーズも5勝(13敗)止まり。94年もサントリーシリーズが6勝(16敗)、ニコスシリーズが8勝(14敗)といつからか最下位が指定席となってしまった。際立っていたのは、その失点の多さ。93年は36試合で78失点、94年に至っては44試合94失点と、これでは勝てるはずもなかった。
だが95年、ようやく長いトンネルから脱出することになった。新監督にかつて旧西ドイツ代表のアシスタントコーチとして1990年イタリア・ワールドカップ優勝を経験したホルガー・オジェックを迎えると、前年のニコスシリーズからチームに加わっていた元ドイツ代表のDFギド・ブッフバルト、MFウーベ・バイン(ふたりはともに旧西ドイツ代表としてオジェックとともに90年ワールドカップ優勝を経験したメンバー)が本領を発揮し、チームは大躍進。オジェックはチームにしっかりとした「ディシプリン(規律)」を植えつけると、まずはブッフバルトをリベロに置き、守備を整備。前年には94だった失点を年間試合数が8試合増加したにもかかわらず、72までに減らすことに成功した。そして、攻撃ではミスターレッズこと、福田正博がバインとのコンビで大爆発。バインの絶妙なスルーパスに福田が抜け出すというホットラインが完成し、32ゴールを挙げる活躍でJリーグ初の日本人得点王に輝いた。この年、福田は52試合中、出場停止の2試合を除く49試合にフル出場し、前線からチームを引っ張り続けた。この結果、サントリーシリーズで15勝を挙げ3位に食い込んだレッズは、ニコスシリーズでも14勝を挙げるなど、年間順位でもはじめて優勝争いを経験することになった。
ただし、躍進は長くは続かなかった。96年限りでオジェックが退任すると、97年には同じくドイツ人のホルスト・ケッペルが指揮官となった。ケッペルには、前任のオジェックが根付かせた堅守に加えて、攻撃的スタイルを植えつけることが期待されたものの、成績は思うように伸びず。選手、サポーターからの信頼を得られないまま、わずか1年で退任することになった。98年には三菱生え抜きの原博実がコーチから監督に昇格し、超大型ルーキーの小野伸二が加入。小野は開幕戦からトップ下で先発すると、元スペイン代表MFチキ・ベギリスタイン、元ユーゴスラビア代表MFゼリコ・ペトロヴィッチらと中盤を構成し、攻撃のタクトを振るった。するとファーストステージを7位で終えるも、セカンドステージにはしばらく故障で戦列を離れていたエース福田の復帰もあって、95年以来の優勝争いの末、3位という結果でシーズンを終えた。
悪夢が訪れたのは99年のことだった。前年を3位で終えたこともあり、意気揚々とシーズン開幕を迎えるも、ケガなどで主力が揃わず、予想外の大苦戦。ファーストステージを93年サントリーシリーズ以来の3勝(4分け8敗)で終えると、指揮官が原博実からオランダ人のア・デモスに代わっても流れは変わらず。決して内容がまったく振るわなかったわけではないが、セカンドステージ第6節で磐田にVゴール負けを喫すると、続く第7節の鹿島戦も先制するも逆転負け、そして第8節の福岡戦、第9節の名古屋戦とまさかの4試合連続のVゴール負けを喫してしまったのだ。結局それが響き、最終戦まで残留争いをすることに。そして、迎えた広島とのホーム駒場スタジアムでのラストゲーム。残留のためには90分以内での勝利が必要だったが、結果は空しくも延長Vゴール勝ち。それまで7度あった延長戦をすべて落としていながら、最後に何の意味のないVゴール勝ちを収めるという皮肉な結果となってしまった。
延長でのVゴールは、ベンチスタートを強いられ途中出場していたエース福田の意地の一発だったが、この得点は「世界でいちばん悲しいゴール」と称されることに。福田がゴールを決めた瞬間、状況を勘違いしていたある若手DFが喜び、福田に後方から抱きつくも、これを福田が振り払ったシーンはあまりに非情な光景だった。
降格はもちろん、褒められたものではない。ただ、現在のレッズが常勝チームとしてある裏には、あの降格があったからともいえるだろう。あのときの悔しさをクラブとしてしっかりと受けとめ、2度と失敗を繰り返さないために努力してきた結果が現在の姿なのだろう。
翌年レッズは苦しみながらも1年でのJ1復帰を決めると、2001年は文字どおり新たなスタートを切ることになった。この年には、駒場スタジアムの約3倍の収容数を誇る埼玉スタジアムが完成し、新戦力としては高卒ルーキー田中達也の台頭があり、新たな飛躍を感じさせるシーズンとなった。そして2002年、チームは本格的な強化策を打ち立て、レッズ初代監督で横浜マリノス(現横浜Fマリノス)、アビスパ福岡でGMを歴任した森孝慈をGMに起用し、監督にはかつて日本代表やジュビロ磐田を急成長させるなど、基礎からのチーム作りに定評のあったハンス・オフトを招聘し、チームの再建を託した。坪井慶介、長谷部誠、平川忠亮、堀之内聖らはこの年の新加入組だが、彼らがいずれも現在のチームに欠かせない選手に成長した裏には、しっかりと将来を見据えた堅実な補強が実を結んだ結果だといえるだろう。ルーキーながら40試合中38試合にスタメンフル出場した坪井は、チーム初のナビスコカップ決勝進出に大きく貢献しニューヒーロー賞を獲得すると、Jリーグ新人賞にも輝いた。
チームは世代交代を図り、いまやチームに欠くことのできないボランチに成長したMF鈴木啓太が定位置を獲得したのも、このシーズンだった。一方で長きに渡りチームのシンボル的存在だった福田に加え、2001年に加入した元日本代表キャプテンの井原正巳のふたりのベテランが現役生活に終止符を打つことになったのも同シーズンだった。
2003年、チームはようやく初タイトルを手にすることになった。前年に続き、ナビスコカップで決勝に進出すると、鹿島アントラーズとの再戦を4対0と制し、リベンジを果たした。決勝でゴールにアシストと爆発したFW田中達也はMVPとニューヒーロー賞をダブル受賞。チーム史上初のタイトル獲得は、まさに新時代の到来を予感させた。東京ヴェルディから加入した元ブラジル代表FWエジムンドはわずかに2試合を出場しただけでチームを離れてしまったものの、オフトが熱望しG大阪から獲得したGK都築龍太は期待に違わぬ活躍を見せ、札幌から加入した山瀬功治(現横浜Fマリノス所属)も見事に右ひざ靭帯断裂の重傷を克服し、チームの躍進を支えた。これまでになかった積極的な補強は確実に個のレベルアップにつながり、それがチームをも前進させたことは間違いないだろう。残念ながらオフトは03年限りでチームを去ったものの、04年にかつてプレーヤーとしてレッズで一時代を築いたギド・ブッフバルトを新監督に、京都パープルサンガ(現京都サンガ)などで監督経験のあるゲルト・エンゲルスをコーチに迎えると、レッズの成長はさらに加速した。惜しくもナビスコカップ決勝ではFC東京に敗れ、連覇はならなかったものの、セカンドステージは12勝1分け2敗の成績で念願のステージ制覇を達成。奇しくも、そのステージ優勝を決めた会場は聖地、駒場スタジアムだったものの、名古屋に敗れて優勝が決まったあたりがいかにもレッズらしかったいえるかもしれない。
前年に続き、このシーズンも他チームから即戦力を獲得したことが、更なるチーム強化につながった。日本代表・不動の左サイドバックだった三都主アレサンドロに加え、田中マルクス闘莉王らの獲得でその選手層は国内随一を誇るまでに至ったといえるだろう。そして27ゴールを挙げ、得点王に輝いたエメルソンの活躍は見逃せない。チャピオンシップこそ、横浜FMの前に沈んだが、浦和の強さを印象づけたシーズンともいえた。続く2005年もレッズの勢いは止まらず、年末の天皇杯で前身の三菱以来25年ぶりの優勝を果たすと、リーグ、ナビスコカップでも上位に食い込むなど、すべての大会で優勝争いを演じることになった。さらに2006年にはついに念願だった初のリーグ優勝を果たし、天皇杯も連覇。リーグでは東京ヴェルディから獲得したエース、ワシントンが26試合26ゴールと爆発を見せ得点王に輝いたほか、34試合で28失点とリーグ最少を誇った守備陣の健闘が光った。まだ記憶に新しい2007年。ブッフバルトが退任し、ホルガー・オジェックが11年ぶりに指揮官として復帰を果たすと、千葉から日本代表MF阿部勇樹を獲得する大型補強を慣行し、更なる戦力の充実を図った。公式戦初戦となったG大阪とのゼロックス杯では0対4と完敗し不安を覗かせるも、その後は建て直しを図って、最後まで優勝争いを演じることに。そして、11月14日、埼玉県の県民の日には初出場にしながらAFCアジアチャピオンズリーグ決勝でセパハン(イラン)を退け、アジアの頂点にも立ったのだ。
だが、連覇を目前にしていたリーグでは、終盤のまさかの失速(残り5試合は3分け2敗)が響き、最終節で鹿島に逆転優勝を許すことに(第29節終了時には10あった勝点差を最後で引っくり返された)。これは常勝軍団に成長したチームとはいえ、後退と進化を繰り返してきたいかにもレッズらしい一面が出たともいえるだろう。浦和レッズとは、そんな一筋縄ではいかないチームなのだ。
来るFIFAクラブワールドカップでは、アジアチャンピオンとして臨むわけだが、土壇場でリーグ優勝を逃した敗戦からの切り替えがどこまでできているかがカギとなるだろう。ポンテが負傷離脱してしまったもののJリーグで存在感を示し、レッズを支える中心的な存在といえる闘莉王、鈴木、阿部、田中達、長谷部らの日本を代表する選手のプレーが世界のトップレベルに対しどれほど通じるかを測るのは楽しみといえる。果たして、ラインを引いてゴール前を固め、カウンターをねらうというクラシックな戦術でアジアを制したレッズの戦い方は世界に通じるのだろうか。そのためにも、まずはセパハン対ワイタケレ(オセアニア)の勝者に勝って、ぜひACミランとの対戦を実現させたいところ。レッズにとって、このクラブワールドカップが新たな挑戦のスタートになるかどうかは、そこにかかっているといえるだろう。
Reported by 栗原正夫
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