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[ 2006 ゆく年くる年:サンフレッチェ広島 ]
【2006 Memorial Scene】
第13節、リーグ戦初先発を前にした青山敏弘は、同期生・吉弘充志から「アオならできる」というメールを受け取っていた。中心性頸髄損傷という選手生命に関わる大けがを負いながらも、友を思いやれる選手の存在。これぞ、広島の財産だ。
【サンフレッチェ広島 Playback 2006】
第8節、最下位転落。カップ戦も含め10試合で1勝もできないチーム成績の責任をとり、小野剛監督は辞任した。後を継いだ望月一頼監督が、4試合で勝点7を稼いで「暫定監督」としての責任を果たす間に、フロントはミハイロ・ペトロヴィッチ監督と契約し、J1残留を託した。イビチャ・オシム監督の懐刀としてオーストリアリーグ優勝などの実績を残したペトロヴィッチ監督は、広島にオシム流の「考えて走る」サッカーを持ちこむため、体感気温40度と酷暑の広島で1日2回の練習を行い、3日に1度の練習試合ではほぼ全選手に90分間のプレーを課した。この「立ったまま眠れる」とウェズレイが言ったほどの猛練習で、広島は試合終了まで走り続けるスタミナを身につけ、さらにパス関連のデータがペトロヴィッチ監督就任以降大きく向上(1試合平均パス数333.3本→448.0本、パス成功率66.4%→79.5%)するなど、「つなぐサッカー」のコンセプトもチームに浸透した。また、青山敏弘や柏木陽介などの若手を大胆に抜擢してチームを活性化し、MFの戸田和幸や森崎和幸を最終ラインにコンバートすることで守備も安定させた。この結果、広島は第20節の鹿島戦以降9勝2分4敗・勝点29の好成績で乗り切り(20節以降の勝点数では浦和・磐田に次いで第3位)、J1残留を達成した。来年2月1日からのトルコキャンプで前田俊介や高柳一誠、吉弘充志らの若手を育成しチームを底上げすることで、2007年は優勝争いへの参加をもくろむ。
Text by 中野和也2006年12月31日(日)













