2006年2月1日(水)
日本代表トレーニングキャンプ(宮崎)
小野伸二選手(浦和)コメント:
「現時点ではまだ自分自身が厳しい状況にいると考えている。またジーコ監督の信頼を得られるように頑張りたいです」
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2006年2月1日、2006FIFAワールドカップドイツTM 挑む日本代表の第一歩となる宮崎トレーニングキャンプに小野伸二が合流した。2006年1月、5年ぶりに古巣・浦和レッズに復帰し、代表キャンプにも急遽招集された注目の選手の登場とあってメディアもサポーターも大騒ぎ。宮崎空港で彼はもみくちゃにされた。そんな周囲のフィーバーぶりにも動じることなく、小野は自身を冷静かつ厳しい目で見ていた。
ジーコジャパンの初戦は2002年10月のジャマイカ戦(東京・国立)。この記念すべき一戦で先制点を奪ったのが小野伸二だった。中田英寿(ボルトン)から高原直泰(ハンブルガーSV)を経由し、3列目から上がってきた彼にパスがつながって生まれたこの得点は、新チームの輝かしい未来を感じさせた。小野は中田、中村俊輔(セルティック)、稲本潤一(ウエストブロミッチ)からなる「黄金の中盤」の一角としてブラジル人指揮官の大いなる期待を背負った。
彼のJリーグデビューもまた華々しい未来を感じさせるものだった。98年3月21日のJリーグ開幕・ジェフ市原(現千葉)戦。高校サッカーの名門・清水商業高から鳴り物入りで入団した18歳の若者はユーゴスラビア代表ペトロビッチ、元スペイン代表ベギリスタインら百戦錬磨の選手たちに囲まれながら堂々とボールをさばいた。ダイレクトパスの正確さや天性のひらめきは、2万人近い駒場スタジアムの観衆を瞬く間にとりこにした。
そして小野はJリーグデビューから瞬く間にスターダムにのしあがる。開幕戦から1週間も経たないうちに岡田武史監督(現横浜)率いる日本代表に選ばれ、4月1日の韓国戦(ソウル)で国際Aマッチデビュー。そして6月のフランスワールドカップ代表メンバーにも選ばれ、第3戦目のジャマイカ戦のピッチに立った。リヨン・ジェルランスタジアムで18歳の若者が披露したファーストタッチからの股抜きは、今なお、多くの人の脳裏に焼きついている。その後もJリーグ新人王を獲得し、新たに日本代表指揮官に就任したトルシエから絶大な信頼を受けるなどサッカー人生は順調だった。99年4月のワールドユース(ナイジェリア)では準優勝という快挙を達成。キャプテンであった彼は世界中から注目された。
このままどこまでも順風満帆に行けばよかったのだが、99年7月のシドニー五輪アジア1次予選・フィリピン戦(東京・国立)で負った左ひざ内側側副じん帯断裂の重症を皮切りに、運命は大きく変化する。所属の浦和はJ2に降格、2000年も小さなケガが続き、シドニー五輪本大会メンバーからも外れるなど、非常に辛く厳しい時を過ごした。
迎えた2001年。浦和が苦しみながらも1年でJ1復帰を果たし、小野本人もようやく本来のパフォーマンスを取り戻しかけた頃、こんな話をしていたことがある。
「ケガをしたり、J2でプレーしたことで自分自身を見直せたのかな。周りの人たちがJ1でやっていることに対する悔しさとか寂しさもあったし。そういう環境でやっていて、いかに僕が『いい時の自分』にこだわりすぎていたのかを痛感しましたね。『Jリーグデビューした頃のよかった自分がなぜ取り戻せないんだろう』と苛立ってばかりいた。そんなことを考えても過去に戻れるわけじゃないのにね…。自分は前向きに一歩一歩進んでいくしかないんだって改めて感じました。それに僕は周りのことばかり気にしてた部分があったんじゃないかな。少しくらいジコチューになってでも自分の考えを押し通すべきなんだって今は思ってます」
人のいい小野伸二があえて自らの主張を前面に出そうとしたその先には「海外挑戦」という野望があった。そして2001年7月、彼はフェイエノールト移籍を決意する。J1復帰直後の浦和に迷惑をかけるのは分かっていても、世界に羽ばたき飛躍する夢は捨てられない。かつてないほど強い意思を彼は貫いた。
移籍1年目でUEFAカップタイトルを勝ち取り、2年目にはUEFAチャンピオンズリーグに出場。また2002FIFAワールドカップTMでは全試合を戦いチームのベスト16入りに貢献するなど着実なステップアップを見せた小野。しかし2003年あたりからは再びケガと手術・リハビリを繰り返すようになってしまう。2004年は彼にとって唯一出ていない年代別世界大会だったアテネ五輪に出場を果たすも、年末には左足首を痛め、メスを入れることになった。翌2005年春には復帰するも、今度は6月のFIFAワールドカップドイツアジア最終予選の大一番・バーレーン戦(マナマ)直前に右足甲の疲労骨折が判明。またもやリハビリの日々を強いられた。そして、この秋の日本代表ラトビア・ウクライナ遠征に彼は戻ってきたが、そこでも右足小指の炎症をおこし、再手術を余儀なくされる…。
これだけケガに祟られては、ジーコジャパンで築いた地位も絶対ではなくなる。中田英がリタイアしていた2004年は中村とともにチームのリーダー的存在に君臨した小野だったが、2005年は3月の最終予選・イラン戦(テヘラン)と5月のキリンカップ・UAE戦(東京・国立)しかピッチに立てなかった。しかも2試合とも負け試合。このままでは、フェイエノールトより高いレベルの欧州クラブへの移籍やFIFAワールドカップドイツ出場という現実的目標を果たせないばかりか、選手生命の危機にさえ瀕してしまうかもしれない。26歳の今、自分はどうするべきなのか…。悩んだ末に小野が出した決断はJリーグ復帰、しかも古巣の浦和に戻って再出発を切ることだった。その決断は勇気のいることだったに違いない。
このニュースは日本サッカー界全体に衝撃を与えた。いったん海外に出た選手が日本に帰ってきて高いモチベーションを取り戻すのは容易ではないかもしれない。小野に対しても心配する声が皆無だったわけではない。だが、日本サッカー協会の川淵三郎キャプテンは彼の行動を前向きに捉えていた。
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2006年1月27日 2006日本代表新キャッチフレーズ発表記者会見
日本サッカー協会川淵三郎キャプテンコメント:
Q:小野選手が浦和レッズに移籍し日本に戻ってきたメリットをどう考えますか?
「私がこの質問に答えることが適任かどうか…とは思うが、昨年の小野はケガでほとんど試合に出場できなかった。彼は自分の状況を見つつ、ワールドカップまでをどう戦うのがベストかを真剣に考えてきたのだと思う。その中で、古巣・浦和に帰ってくることが適切な選択だと思ったのではないか。昨日の入団会見に立ち会ったわけではないので、新聞報道などを見た限りだが、私は彼が『古巣に戻ってきた』ということを言うのかと思ったら、『新たなチャレンジである。浦和でポジションを取ることを目指す』と言っていた。それを聞いて本当のプロになったなぁと感じた。これこそ、海外で4〜5年を戦ってきた選手の言葉だと思う。浦和には彼をサポートする医師もいるし、よい雰囲気の中でレベルアップしていける。その意味ではよかったのではないかと思います」
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浦和のトレーニングにはまだ数日しか参加していないが、小野がいるだけでチームの雰囲気が明るくなるのは間違いなかった。彼はどんな時も必死に走り、心に魂を込めてボールを蹴る。その真摯な姿勢はブッフバルト監督やチームメートの誰もが認めている。Jリーグでどのような復活劇を見せてくれるか非常に楽しみだが、その前に彼は2月1日から合流している日本代表での活動に集中しなければならない。
宮崎合宿、アメリカ遠征を通じ、小野は中心選手の1人としてチームを引っ張っている。非凡な技術やクリエイティブな動きではやはり他を寄せつけない。高校生相手ではあったが、3日の鵬翔高校戦でも巧みなトラップからDFをかわし逆足でボレーシュートを放つシーンを披露。彼しかできない高度なプレーに周囲からはため息が漏れた。
11日(現地時間10日)にはアメリカとの今年最初の国際親善試合が行われる。
「今年最初の国際親善試合だし、どこまで自分がやれるか確認したい。試合勘とかゲーム体力とかがインターナショナルで戦えるレベルになっているかチェックできるといい」と小野は言う。が、日本代表のチーム状態は順調とはいえない部分もある。ジーコ監督は小笠原満男(鹿島)と小野を並べ、その前に久保竜彦(横浜)を置く3ー6−1の新たな布陣を試しているが、ここまでの調整段階ではしっくり行っていないのだ。
「今は疲労がたまっているけど、全てをやっておかなければいけない時期。みんなで話し合いをしながら改善していけると確信している」と小野はあくまでポジティブに物事を捉えている。
Jリーグでの完全復活、そして3度目のワールドカップ出場への再スタートはまだ始まったばかり。この先も紆余曲折はあるだろうが、川淵キャプテンが話している通り、彼ほどの経験と度量があればどんな難題でも克服できるはず。比類なき天才的サッカーセンスを持つ男がどう変化していくのか。日本代表戦、Jリーグを通しての観戦の楽しみは尽きない。
2006.02.10 Reported by 元川悦子













