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【FCWC特集】ヨーロッパ代表ACミランを徹底紹介!クラブの成り立ち、栄光と挫折の歴史から現在のクラブの魅力を紹介!(07.11.14)

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決勝戦完売!狙うは、12月13日(木)の準決勝!ACミランのチケット情報はこちらから!
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 ミランが設立されたのは1899年。イングランドから「輸入」されたフットボールというスポーツがイタリアに根付き始めた、その黎明期のことである。設立の中心となったのは、イギリス中部ノッティンガムにある繊維商社トーマス・アダムス商会のミラノ駐在員ハーバート・キルピンだった。学生時代に地元ノッティンガムのクラブでプレーした経験を持つキルピンは、イギリス人ビジネスマンのたまり場だったミラノのビアホールに出入りして仲間を募り、好奇心の強いイタリア人とスイス人の仕事仲間も巻き込んで、フットボールのクラブを立ち上げる。その名も、ミラン・クリケット&フットボールクラブ。クラブ名がミラノの英語読みであるミランになったのは、メンバーの大半がイギリス人だったためだ。

 設立2年後の1901年には、それまで3連覇していたジェノアを3-0で破り、初めてのスクデットを獲得。その後も、1906年、07年に連覇を果たすなど、立ち上がりは順調だった。しかし、この連覇の後、38歳になったキルピンが引退すると同時に、草創期の黄金時代は終わりを告げることになる。1908年、外国人選手の在籍を認めるかどうかを巡ってクラブ内で分裂が起こり、袂を分かった「国際派」は、フットボールクラブ・インテルナツィオナーレ・ミラノ、すなわちインテルを設立した。現在まで100年間にわたって続くライバル関係の始まりである。1909年1月10日に行なわれた初めてのダービーは、接戦の末にミランが3-2で勝利を収めた。しかしそれ以降、2つの世界大戦を間に挟んだ20世紀前半を通して、ミランはインテルの後塵を拝し続けることになる。インテルが、全国リーグ「セリエA」がスタートした1929-30シーズンを含めて通算5度のスクデットを勝ち取ったのに対して、ミランは一度も優勝を手にすることができないまま、40年以上の時を過ごさなければならなかったのだ。

 ミランがセリエAの頂点にやっと返り咲いたのは、1950-51シーズンのことである。第二次大戦後の外国人選手解禁を受けて、ミランは1948年のロンドン・オリンピックで優勝したスウェーデン代表の主力だったFWグンナー・ノルダール、MFニルス・リードホルムとグンナー・グレンを獲得する。今も語り継がれるこのスウェーデン人トリオ「グレ・ノ・リ」の活躍で44年ぶりのスクデットを獲得したのを皮切りに、ミランは50年代から60年代初頭にかけて、計4回の優勝を記録する。そして62-63シーズン、4度目の挑戦となったUEFAチャンピオンズカップで、当時欧州最高のストライカーといわれた「黒豹」エウゼビオを擁するベンフィカを下して初優勝。ついにヨーロッパの頂点を極めることになった。イタリアのクラブとして初めてのチャンピオンズカップを天に掲げたのは、2年前にリードホルムからキャプテンマークとリベロのポジションを引き継いだチェーザレ・マルディーニだった。現主将パオロの父親であり、後にイタリア代表監督も務めることになるあの名伯楽である。

 この決勝戦は、その後20年近くにわたってミランのシンボルとなる偉大なプレーヤー、ジャンニ・リヴェーラの名を、世界に知らしめる機会でもあった。弱冠19歳で2得点をアシストし「ゴールデンボーイ」と呼ばれたリヴェーラは、プレーの展開を瞬時に読み取る卓越した戦術眼、デリケートで正確なボールコントロール、そして長短のパスを高精度で蹴り分けるテクニックを合わせ持った、典型的な、そして理想的な「10番」だった。リヴェーラをチームの中核に据えたミランは、67-68シーズンに通算9度目のスクデットとカップウィナーズカップ、翌シーズンにはチャンピオンズカップ、そしてクラブにとって初めてのインターコンチネンタルカップ(63年にはペレのサントスに敗れている)を勝ち取った。その立役者だったリヴェーラは、イタリア人初のバロンドールを獲得し、ヨーロッパ最高の10番という評価を確立する。だがこの69年の栄光は、黄金時代の「終わりの始まり」を告げる最後の輝きとなった。70年代に入ると、ミランはゆっくりと衰退の道を歩んで行くことになるからだ。クラブの経営状態が悪化、会長が一度ならず交代する混乱の中で、75年にはまだ現役のキャプテンだったリヴェーラが、ミラノの財界人の支援を受けてクラブの事実上の経営権を手に入れるという出来事もあった。しかし、キャプテンと経営者という、時には利害が相反する「二足のわらじ」は失敗に終わることになる。リヴェーラは79年、かつての主将リードホルム監督の下で勝ち取った11年ぶり10回目のスクデットを最後に、20年にわたる現役生活に終止符を打った。スクデットを10回勝ち取ったチームは、ユニフォームに星をひとつ縫い付けることを許される。それゆえ、このタイトルは、ミラニスタの間で「スクデット・デッラ・ステッラ」(星のスクデット)として記憶されている。

 リヴェーラというシンボルを失ったミランを待っていたのは、長い歴史の中で最も屈辱的な時代だった。79-80年シーズンの終わりに発覚した、闇サッカー賭博絡みの八百長事件に関わっていたことが明らかになったミランは、ピッチ上では3位だったにもかかわらず、セリエBへの降格処分を受ける。翌シーズンのセリエBでは優勝して1年でセリエA復帰を果たしたものの、続く82-83シーズンは16チーム中14位で正真正銘の降格を喫することになった。この時も1年でセリエAに復帰したものの、2年後の85年秋には、当時の会長ファリーナが事業に失敗して多額の負債を抱え、ミランも破産寸前の状態に追い込まれてしまう。そこに救世主のように現れたのが、現会長のシルヴィオ・ベルルスコーニだった。不動産・建設業から身を興し、マスコミ産業にも進出して一大メディア帝国を築き上げようとしていた地元ミラノ出身の野心的な実業家は、クラブの経営権を手に入れると、当時としてはケタ違いの資金を投じてチームを補強、わずか3年あまりで、ミランを世界の頂点まで一気に押し上げることになる。

 その最大のキーポイントとなったのは、会長に就任して実質2年目の87-88シーズン、セリエBのパルマからほとんど無名の若手監督アリーゴ・サッキを抜擢したことだった。まだリベロを置いたマンツーマンの守備的なサッカー「カテナッチョ」が全盛だったこの時代、サッキは高い位置からのプレッシングとオフサイドトラップを多用するゾーンディフェンスの4-4-2という最先端の戦術を採用して、一部で注目を浴びていた。ベルルスコーニが獲得を決心したのは、ミランがコッパ・イタリアでサッキ率いるパルマに敗れた試合を見て、そのサッカーに一目惚れしたからだと言われる。この87-88シーズン、最終ラインにクラブ生え抜きのフランコ・バレージとパオロ・マルディーニ、中盤にはカルロ・アンチェロッティ(現監督)、ロベルト・ドナドーニなど、イタリア代表クラスのトッププレーヤーを揃えた上、さらにルート・グーリット、マルコ・ファン・バステンという当時欧州最強を誇ったオランダ代表のエース2人をチームに加えたミランは、マラドーナを擁するナポリと最後までデッドヒートを繰り広げた末に、9年ぶりのスクデットを獲得する。そして、3人目のオランダ人、フランク・ライカールトをチームに加えた88-89シーズン、89-90シーズンには、2年連続でチャンピオンズカップ、インターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)のダブル優勝を果たして、世界の頂点に駆け登ったのだ。この二度のトヨタカップでは、日本の多くのファンが、当時のミランの革命的なサッカーと圧倒的な強さを、その目で確かめることになった。

 サッキがイタリア代表監督就任のためチームを去った91-92シーズン、ベルルスコーニは、クラブのサッカー以外の部門を統括する任についていたファビオ・カペッロを後任に指名する。またもセリエAでほとんど監督経験のない指揮官の起用だったが、この人選もまた「当たり」だった。カペッロは就任1年目に無敗優勝という偉業を果たすと、その後も95-96シーズンまでの5シーズンで4度のスクデットを勝ち取り、文字通りの黄金時代を築いたのだ。バレージ、マルディーニにアレッサンドロ・コスタクルタ、デメトリオ・アルベルティーニも加わった育成部門からの生え抜き組を中心に、93年までは「オランダトリオ」、93年以降はデヤン・サヴィチェヴィッチ、ズヴォニミール・ボバン、マルセル・デサイーといったワールドクラスの外国人選手を擁したチームは、「リ・インヴィンチービリ」(無敵軍団)と呼ばれて怖れられた。

 ミランはカペッロ時代にも二度(93年、94年)、トヨタカップ出場のため日本を訪れている。だが93年はカフー、レオナルドなどを擁するサン・パウロ、94年はベレス・サルスフィエルドに敗れ、世界の頂点を極めることはできなかった。戦術的には、サッキ時代と比較してより守備的で、ゴールを決めること以上にゴールを奪われないことを重視するのがカペッロのサッカーだった。その象徴ともいえるのが、34試合でわずか36得点、15失点で勝ち取った93-94シーズンのスクデットである。カペッロは、95-96シーズンにジョージ・ウェアを擁して勝ち取った自身にとって4度目のスクデットを最後にチームを去る。94年に政界進出を果たし、会長にとどまりながらもミランの経営からは手を引いたベルルスコーニに代わり、経営責任者となったアドリアーノ・ガッリアーニ副会長は、ウルグアイ人監督オスカル・ワシントン・タヴァレスを後任に選んだが、チームは低迷。96年12月に、イタリア代表からサッキを呼び戻すも、この96-97シーズンは10位、そして、レアル・マドリードからカペッロを呼び戻した翌シーズンは、さらに酷い11位という成績にとどまった。

 続く98-99シーズン、ウディネーゼという弱小クラブをセリエA3位に導いた理論派のアルベルト・ザッケローニを監督に迎えたミランは、ボバン、レオナルド、ビアホフなどの活躍で、誰も期待していなかったスクデットを勝ち取る。しかし、真の意味での黄金時代は、01-02シーズン途中に、トルコ人のファティ・テリム監督に替わって就任した現監督、カルロ・アンチェロッティの偉業を待たなければならなかった。02-03シーズンに優勝を飾って以来昨シーズンまで、チャンピオンズリーグでは決勝進出3回、優勝2回、5年連続ベスト8以上という、欧州ナンバー1の実績を残し、セリエAでも03-04シーズンにスクデットを獲得した「アンチェロッティのミラン」は、UEFAクラブランキングでも過去3年以上にわたってトップを維持している。

 この黄金時代を築く礎となったのは、就任2年目の02-03シーズン、リヴァウド、マヌエル・ルイ・コスタ、クラレンス・セードルフ、アンドレア・ピルロという4人の「10番」を揃えたチームを預かったアンチェロッティが、ピルロを中盤の底に、セードルフを左インサイドハーフにコンバートして、4人を同時にピッチに送る[4-3-2-1]システムを導入したことだった。
 それまで守備的なプレーヤーを置くのが常だった中盤センターに、ピルロというファンタジスタを置き、長短のパスを駆使した攻撃の組み立てを委ねたこと、優れたテクニックを備えた攻撃的なプレーヤーを数多くピッチに送ったことによって、ミランはそれまでのイタリアサッカーとは一線を画す、ボールポゼッションを基盤にしたテクニカルな攻撃サッカーを確立した。その一方では、攻守のバランスを重視し組織的なディフェンスをないがしろにしない、イタリア的なメンタリティのいい部分も保っており、戦術的な完成度の高さは他の追随を許さないレベルにある。

 02-03シーズンの優勝メンバーのうち、今も9人(ジダ、ネスタ、マルディーニ、セルジーニョ、ガットゥーゾ、ピルロ、アンブロジーニ、セードルフ、インザーギ)がレギュラークラスのまま健在。とりわけガットゥーゾ、ピルロ、アンブロジーニ、セードルフというMF陣は、今シーズンも含め6年間にわたって不動を誇っている。だが、現在のミランを代表するプレーヤーといえば、やはりカカだろう。03-04シーズンに21歳でサン・パウロから移籍してきたカカは、1年目に早くもルイ・コスタからポジションを奪って大器の片鱗を見せると、その後も年々成長を続け、昨シーズンのチャンピオンズリーグでは10ゴールを挙げて得点王に輝く活躍を見せた。2007年のバロンドールもほぼ確実視されており、今や世界最高のフットボーラーと呼ばれるにふさわしい存在となった。

 今回の来日メンバーには、ここまで挙げてきたおなじみの名選手たちに加えて、プレシーズンの故障から復帰し、調子を上げつつある怪物ロナウドも名を連ねている。31歳を迎えて、かつてのようなスピードやキレは望めないとはいえ、その圧倒的なテクニックとサッカーセンス、そして得点感覚は錆びついておらず、コンディションさえ許せば今なお世界最高のストライカーにふわさしいプレーを見せる。「アンチェロッティのミラン」にとって、今回のFIFAクラブワールドカップ(FCWC)は、ボカ・ジュニアーズにPK戦で敗れた2003年トヨタカップの雪辱戦という意味合いも持っている。奇しくも、今回の南米代表はそのボカである。ヨーロッパの頂点に君臨するこの偉大なチームが、横浜の地でどんな戦いを見せてくれるのか、期待と興味はつきることがない。

Reported by 片野道郎

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