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赤地に三日月と星が描かれたチュニジア国旗から三日月を取り除くと、エトワール・サヘルのエンブレムになる。フランス語で“星”を意味するエトワールとは、光明と知識を意味するイスラム教のシンボル。そしてエトワール・サヘルは1925年、フランス植民地時代のチュニジアで、愛国心と信仰心に溢れたチュニジア人によるチュニジア人のためのクラブとして産声を上げた。
スース市のフレンチ・アラビアンスクール卒業生の尽力により設立された政府公認のスポーツ教育クラブは、当初からこの赤地に白い星のエンブレムを使用している。しかも白いショートパンツに赤ジャージ、襟と裾に白いアクセントを入れて、胸元には白い星――と、設立メンバーはウェアの組み合わせまで詳細に考えたそうだ。ところがナショナリズム色が強すぎるとして、時の政府は赤+星ジャージの着用を禁止。1926年からチュニジアサッカー協会主催のリーグ戦参戦を始めたエトワール・サヘルだったが、数年の間は白と緑の縦縞ジャージの着用を余儀なくされた。
正式名称はエトワール・スポルティヴ・デュ・サヘル、略称ESS。クラブが本拠地を構える都市スースではなく、チュニジア東海岸一帯を指すサヘル地方がクラブ名に採用されたのは、チーム史上最初の正ゴールキーパー、サレム・エル・モンソールの存在が非常に大きい。ラ・スーシエンヌ(スースの、という意味)やらラ・ムズュルマヌ(イスラム教の、という意味)など複数の候補が上がっては消えていき、最終的にクラブ名はエトワール・ド・スースに落ち着こうとしていた。ところが選手たちの中から、「GKエル・モンソールはスース出身ではない。スースではなく、より広範囲を示すサヘルにしたほうが相応しいのではないか」という意見が出された。その通り、エル・モンソールはスースから南30km程のメンゼル・カメルで生まれ育ち、当時もその町からスースの練習場へ自転車で通っていたのだ。こんな選手たちの訴えが聞き入れられ、クラブ名は「サヘルの星」に決定する。
チュニジア人によるチュニジア人のためのクラブは、ピッチの上では相手チームとだけではなくフランス寄りのジャッジとも戦い、ピッチの外では首領国政府からかけられる圧力と常に戦う必要があったようだ。例えば1930年代、スースの町にサッカースタジアムはひとつしかなかった。一方で、サッカークラブはエトワール・サヘルを含めて5つ。フランス人クラブのパトリオット・ド・スース、ユダヤ人クラブのマッカビ、イタリア人クラブのラ・サヴォイヤ、さらにマルタ人クラブのレッド・スターがひしめいており、スタジアムの使用スケジュール決定権はもちろんフランス人クラブが握っていた。そしてエトワール・サヘルに使用許可が与えられたのは、公式クラブ史によると、常に「練習不可能な時間帯」だったとか(深夜や早朝だろうか)。
それでもエトワール・サヘルは1932年にチュニジア選手権で準優勝を果たし、さらにカップ戦で数度の決勝進出など好成績を重ねた。また1949/50シーズンにはチュニジア国内リーグで念願の初優勝を遂げる。逆境にも負けず国内屈指の強豪クラブに成長したエトワール・サヘルは、1956年3月20日にチュニジアが独立してから初めて開催された1957/58シーズンには、正真正銘チュニジアナンバーワンの座を勝ち取った。
翌年カップ戦を制し、いよいよ黄金時代突入を予感させたエトワール・サヘルに、とんでもない災難が降りかかった。チーム存続の危機、である。1961年3月5日、ホームでの国内カップ戦準々決勝エスペランス・チュニス戦を0−2で落としたことに怒ったエトワール・サヘルサポーターが、スタジアム周辺で投石を続けたのだ。クラブ側は慌てて対応に走り回ったが、協会はクラブに罰金とシーズン残りの全ホーム戦無観客試合の制裁を下した。しかし処分はこれだけでは済まなかった。クラブ側とスポーツ大臣を呼び寄せて直接事情を聞いたブルギーバ大統領が、なんとエトワール・サヘルの解散と幹部・選手の活動禁止を言い渡したのだ。
もっともサポーターたちには、暴動を起こすだけの理由があった。実は前年度のカップ戦準決勝でスースを本拠地に置くもうひとつのクラブ、スタッド・スーシアンがエスペランス・チュニスと対戦したときに、ベルカウアス主審はスース側にあきらかに不公平な笛を吹いた。試合後には小さな暴動が起こり、スタッド・スーシアンには制裁が下された。そしてエトワール・サヘルの問題の試合――やはりエスペランス・チュニスとの対戦――で主審を務めたのは、同じくベルカウアス審判!実は試合前にエトワール・サヘル側は、協会に“問題の”審判交代を申し入れていたが、聞き入れられることはなかった。また試合中にはエトワール・サヘルのゴールが理由なく取り消されたり、エトワール・サヘルの選手に殴りかかったエスペランス・チュニスの選手が無処分だったりと、明らかに審判は公平さを欠いていた。もちろん理由があっても、暴動は決して許されるものではなく、処分が取り消されるわけでもない。
しかし幸運の“星”は、チームを見放さなかった。元ジュニア部門の所属選手で、パリで医学の勉強を終えて地元スースに帰ってきたアマド・カルイが、クラブ復活のために奔走したのだ。まずはスタッド・スーシアンの協力を仰ぎ、エトワール・サヘル所属の選手全員を引き抜いてもらった。これは選手たちがそれぞれ別のチームに移籍し、チーム自体が完全に解体してしまうのを防ぐためだ。自らはスタッド・スーシアンの副会長に就任し、混合チームを1962年国内カップ戦準優勝に導いた。決勝で惜しくも負けはしたものの、チームが勝ち上がるにつれてスース地元民のエトワール・サヘル復活を望む声はどんどん高まっていったそうだ。おかげで決勝直前、スポーツ省はついにクラブ再建を許可したのだった。
ちなみに当時、エトワール・サヘルはもはや単なる一サッカークラブの域を超えていた。チュニジア独立直後の1957年にバスケットボールとバレーボール部門が設立され、スースの子供や青少年たちにとって大切な身体活動の場となっていたのだ。サッカークラブとともに1961年に活動停止を強いられたが、62年からは無事に全スポーツチームが復活。バレーボールは国内チャンピオン5回、アフリカ大陸チャンピオン2回の強豪チームに成長したし、バスケットボールも2007年に見事国内チャンピオンに輝いた。また現在はハンドボール、柔道、レスリング、レスリング、体操など様々なスポーツが行われている。
再建直後の1962/63シーズンは、エトワール・サヘルにとって最高の年となった。救世主カルイが会長に就任し、チームは史上初めての国内リーグ&カップ戦の2冠を達成。しかもリーグ戦はシーズン無敗(14勝8分)で突っ走った。実力と名誉を完全に取り戻し、さらには1965/66シーズンにもリーグ優勝を果たす。この後のエトワール・サヘルには1992/93シーズンのクラブ史上最初にして最後の「残留をかけた戦い」以外は大きな危機もなく、チュニジア国内で定期的にタイトルを取り続けた。その勢いは国内だけに留まらず、1970年代には北アフリカクラブ戦で、1980年代にはアラブ諸国クラブ戦で、そして1990年代からはついにアフリカ大陸クラブ戦でタイトルを獲得するまでになった。
1990年代後半には4つのアフリカ大陸タイトルをつかみ(1995年・1999年CAFカップ、1997年カップウイナーズカップ、1998年スーパーカップ)、アフリカ大陸全土から大いなる賞賛を受けた。さらに1996年にはIFFHS(国際サッカー歴史記録学会)が定める世界クラブランキングトップ100圏内に初めてランクイン(81位)。2007年10月末現在のランキングは56位で、アフリカ大陸では25位アル・アハリ(エジプト)のに次ぐ2番目につけている。もちろんこのアル・アハリからCAFチャンピオンズリーグ優勝をもぎ取ったのだから、エトワール・サヘルがアフリカナンバーワンの座をつかむ日もそう遠くはないはずだ。
ところでチュニジアといえば、2002年FIFAワールドカップで日本代表と対戦したことでお馴染みだろう。5年前のエトワール・サヘルは代表3選手を日本に送り込んでいる。また大会前後にクラブの一員だった選手を含めると、エトワール関係者は計8人。残念ながら現在のクラブには当時の代表選手は一人も残っていないから、選手たちにとっては初・日本上陸となるのだろうか。
もちろん大会観戦を目論むほとんどのエトワール・サヘルサポーターにとっても、日本への旅は初めてに違いない。参考までにエアチケット、日本国内の移動、ホテル、試合チケット、東京観光付きの応援ツアーは3850チュニジアディナール(日本円約35万円)也。チュニジア政府工業振興庁の調べによるとチュニジア人労働者の平均月収は300〜600ディナールだから、なかなかお高い応援ツアーのようである。
それでも日本に乗り込んでくる熱狂的なサポーターが存在するとすれば、彼らの一番のお目当てはきっとアミヌ・シェルミティだろう。今年の12月26日にようやく20歳の誕生日を迎える若きストライカーは、今季のCAFチャンピオンズリーグで8得点を挙げた期待の大型新人。まだAチーム入りしてわずか10ヶ月ながら、スピードとテクニック、1対1で見せる狡猾さは群を抜いている。なにより経験の少ないシェルミティを積極的に起用したフランス人のベルトラン・マルシャン監督は、フランス2部リーグでプレーしていたあのディディエ・ドログバをギャンガン(当時1部)にわざわざ呼び寄せ、高き才能を開花させた人物として有名なのだ。すでにアフリカや欧州各国から、いくつかオファーが届いているというニュースも届き始めた。シェルミティ本人はブンデスリーガファンだそうだから、行き先はドイツかも?とにかく日本でのFIFAクラブワールドカップでの活躍次第では、来季から早くも欧州で活躍する姿が見られるかもしれない。
Reported by 宮本あさか
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