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【FCWC特集】マンチェスター・ユナイテッドのクラブの栄光と苦闘の歴史を徹底紹介!(08.10.01)

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マンチェスター・ユナイテッドは1878年に鉄道労働者によって「Newton Heath LY&R FC」という名前で創立された。ユニフォームの色はゴールド、ショーツは緑色であった。
1892年にNewton Heath FCに名称変更されると、間もなく経営破たんの危機に瀕するが、地元の資産家J.H.Davis氏から「新たな名前でのフレッシュスタート」を条件に援助を受け再建する。もともと創設メンバーもアイルランドからの出稼ぎ者が多く、カトリック色が強かったことから、「マンチェスター・セルティック」など複数が候補に挙げられたが、1902年4月26日、イタリア生まれのルイス・ロッカの提案した「マンチェスター・ユナイテッド」に変更された。

現在、「赤い悪魔」のニックネームで世界中のフットボールファンを魅了するユナイテッドだが、創設当初から常勝クラブであったわけではない。草創期の1907/08と1910/11にリーグ優勝、1908/09にFAカップ優勝を果たすも、その後クラブは低迷。1930年代には二度の2部落ちを経験している。また第二次世界大戦中にはオールド・トラフォードがドイツ軍の爆撃により被災し、修復までの間、マンチェスター・シティのメイン・ロードを使用したこともある。

低迷するクラブを救ったのが、スコットランド人のマット・バスビーだった。バスビー監督というとユナイテッドの印象が非常に強いが、現役時代にはマンチェスター・シティで活躍、1934年にはFAカップを獲得している。その後リバプールにも在籍し、後にリバプールを6度のリーグ優勝、3度のチャンピオンズ・カップ(CLの前身)優勝に導く名将ボブ・ペイズリーとともにプレーしている。

戦争により中断を余儀なくされた現役プロ生活だが、引退後にリバプールからの指導者としてのオファーを断り、1945年2月19日にユナイテッドの監督に就任した。財政的な余裕もないことから、才能ある優秀な若手を見出すこと、また若手育成に力を入れるなど、長期的な視野でクラブの強化に努め、早くも1948年にFAカップ、1952年にはリーグ優勝とタイトルをもたらす。1954年にはボビー・チャールトン、1955年にはダンカン・エドワーズが加入。エドワーズは弱冠16歳でデビューを果たすと、18歳の頃にはすでに中心選手としての活躍を見せ、1955/56、1956/57のリーグ2連覇にも貢献した。なお、エドワーズが持っていたイングランド代表最年少デビュー記録は、1998年にマイケル・オーウェンに記録を塗り替えられるまで40年以上も破られることがなかった。

バスビー監督のもとチームは順調に成長を続け、1958年には1955年に開始されたチャンピオンズ・カップに出場すると準々決勝ホームでの試合を2-1で勝利し、アウェイ、ベオグラードでの試合も3-3と引き分け(総計5-4)で準決勝まで駒を進め、欧州制覇も目前に迫った。しかし1958年2月6日。ベオグラードからの帰途のチームを悲劇が襲った。

経由地のミュンヘン空港で凍った滑走路から離陸を試みるが2度失敗。3度目は成功したかのように見えたが、墜落し機体は大破。8人の選手を含む23人の命が失われた。将来を嘱望されていたエドワーズは病院で15日間生死を彷徨い、息を引き取った。また、命は助かったものの2人の選手が選手生命を絶たれた。バスビー監督も危篤状態が続き、医師から塗油の儀式(カトリック教徒が臨終の際に行なわれる)を行なうことが告げられたほどであったが、奇跡的に意識を回復させると2ヵ月後に退院した。

バスビーは監督業からの引退も考えたが、妻などの説得により同じく奇跡的に生き残ったチャールトンと共にチーム再建を誓った。チャールトンといえば、2002年のW杯招致運動で日本開催を支持し、尽力してくれたことからも、彼の現役時代を知らない日本のファンにもお馴染みだろう。イングランド代表としても106試合に出場。キャノン砲と恐れられた強烈な左足のミドルを武器にゴールを量産。ユナイテッド及びイングランド代表で偉大な出場記録を誇っている。

その後、スコットランド人のデニス・ローとパディ・クレランド、北アイルランド人のジョージ・ベストなどが加入。ローは直後からゴールを量産しキングという愛称で多くのファンを魅了した。元オランダ代表のベルカンプの父親も彼に魅了されたひとりで、息子にデニスという名前を付けている。当時17歳のベストを見出したスカウトのボビ・ビショップは、バスビー監督に「I believe I’ve found you a genius (あなたに天才を見つけたようです)」という電報を打ったという逸話も残されている。

悲劇から生き延びた選手に、これらの選手が加わり再び力を付けたユナイテッドは1963年にFAカップを獲ると、1964年はリーグ準優勝。1965、1967年にはリーグ優勝を飾る。そして出場したチャンピオンズ・カップでは決勝まで駒を進め、ロンドンのウェンブリー・スタジアムで行なわれた決勝戦で、ベンフィカを4-1で破り欧州制覇を果たす。ミュンヘンの悲劇からわずか10年目の出来事であった。バスビー監督は同年、功績が称えられ「サーの称号」を授与された。悲劇的な事故から、欧州制覇というこの一連の出来事は、ユナイテッドの名を世界中に知れ渡らせ、世界的な人気クラブへと成長した大きな要因となっている。

1960年代には初の欧州タイトルを手にし、3人のバロンドール受賞者(1964年デニス・ロー、1966年ボビー・チャールトン、1968年ジョージ・ベスト)を出すなど、敵なしと思われたユナイテッドだが、バスビー監督が勇退し、世代交代にも失敗すると1967/68を最後に1993年までの26年間もの間リーグタイトルから遠ざかる低迷期に突入し、1974年には2部への降格の憂き目にも遭う。しかも、1シーズンだけ在籍したことがあったシティへ1973年に移籍したローが、リーグ終盤のマンチェスター・ダービーで決めた得点が皮肉にもユナイテッドの2部降格を決めてしまったのだ。青ざめてうなだれるロー。結局彼はこのシーズンで現役を退き、この得点が現役最後の得点となった。このようなエピソードを持つとはいえ、当然今もユナイテッドファンから愛され続けている。

 ユナイテッドを長い低迷から蘇らせる救世主が現われる。またもやスコットランド人のアレックス・ファーガソンである。1986年に監督に就任すると、2シーズン目にはリーグ2位と大健闘するが、その後成績が振るわず解任の危機もあった。しかし、その後FAカップ、カップ・ウィナーズ・カップを続けて獲得し監督続投となった。解任せずに良かったと当時のクラブ関係者は胸を撫で下ろしているに違いない。

 1992年にはエリック・カントナがフランスから加入し、パリスター、アーウィン、インスといった選手に若きギグスの活躍もあり、26年ぶりにリーグチャンピオンの座に就くと、翌年はリーグとFAカップのダブルを達成。現在にまで続く黄金期の幕開けである。
 決定的な転機が訪れたのは1995/96だろう。ポール・スコールズやデビッド・ベッカム、ガリー・ネヴィルといったユース育ちの若手を積極的に起用しチームの大幅な若返りを図ったのだ。不安視する声もあったが、若いチームは再びダブル(2冠)を達成し大きな注目を浴びた。
 
そして迎えた1998/99。ユナイテッドはイングランドのクラブ史上初の「プレミアリーグ」「FAカップ」「チャンピオンズリーグ」の三冠(トレブル)という偉業を達成。特に1999年5月26日にバルセロナのカンプ・ノウで行なわれたバイエルンとのCL決勝戦は、「カンプ・ノウの奇跡」と呼ばれ、CL史上最もドラマティックな試合として語り継がれている。
バイエルンが前半6分にバスラーが挙げた得点で1-0と90分までリード。誰もがバイエルンの勝利を確信していた91分にシェリンガム、93分にスールシャール が続けて得点を決めて逆転優勝を果たした。あまりにドラマティックな試合内容にバイエルンを応援していたアンチ・ユナイテッドのイングランド人も「今日だけは!!!」ユナイテッドの勝利に歓喜したほどである。ファーガソン監督はこの年、サーの称号を授与されている。サポーターたちにとっても、ユース世代からその成長を見守ってきた選手たちが中心となっての欧州制覇は何よりも嬉しかったに違いない。

しかし翌1999/2000には、ユナイテッドがFAカップの出場を棄権するという異例の大事件が起きてしまう。FAカップといえば世界最古の伝統を誇るカップ戦で、「イングランドが優勝するよりも、自分の応援するクラブがFAカップで優勝する方が嬉しい」と公言するサポーターも珍しくないという大切なカップ戦である。当時行なわれていた2006年のW杯開催の招致運動にプラスとなると考えた政府が、ブラジルで行われるワールド・クラブ・チャンピオンシップへの参加を強制したのだった。結果として、大会自体も成功からは程遠く、FAカップ辞退を悔やむ形となった。

「カンプ・ノウの奇跡」以降、CLのタイトルが獲ることができず、1999/00、2000/01、2002/03はベスト8。2001/02はベスト4と決勝へ進出することができない。そして監督との確執が要因とも言われているが、ベッカム(2003年)、キーン(2005年)、ファン・ニステルローイ(2006年)といった選手たちがユナイテッドを去ったことも影響し、2003/04、と、ライバルであるリバプールが2004/05優勝を果たした年にはベスト16止まり。翌2005/06は、まさかのグループステージ敗退を喫している。

また2005年11月25日には、現役中からアルコール依存症にも悩まされたベストが、闘病の末、59歳の生涯に幕を閉じた。雨降りしきるなか故郷のベルファストで行なわれた葬儀には、10万人とも言われる参列者が参列した。実質27歳の若さでトップレベルのフットボールから引退し、また北アイルランド代表だったため、W杯などの桧舞台に登場する機会はなかったにも関わらず、これほどまでに人々から愛されたフットボーラーがいるだろうか。英国が生み、ユナイテッドが育てた最高の選手であった。 

後にギグスが、「2005/06はまさかのグループリーグ敗退で、ユナイテッドの時代は終わったと言われたこともある。けれど、あんな悔しい思いは二度としたくないという強い気持ちがプラスに作用した」と話したが、チームは05/06の敗退を引きずることはなく、翌06/07では決勝進出こそ出来なかったものの、CLで存在感を大いに示した。ASローマとの準々決勝、1stレグを2-1で落としたが、2ndレグをこのレベルでは考えられない7対1という大差でローマを下したのだ。抜けたベテラン勢を埋めるまでに成長した若手選手たちの存在が大きいが、なかでも注目すべきはC・ロナウドの成長ぶりだろう。
直前のドイツW杯のポルトガル対イングランド戦で、ユナイテッドのチームメイトであるルーニーを挑発するなどの悪態ぶりがクローズアップされ、シーズン開幕後は他クラブのサポーターはもちろん、ユナイテッドサポーターからすらブーイングを受ける事態にまで発展していたが、ピッチ上で類稀なる才能を見せ付け、ブーイングした人々を黙らせた。ASローマも彼の高速ドリブルを止めることができなかった。

C・ロナウドは2007/08シーズンにゴールゲッターとしての才能も開花させ、本来純粋なストライカーでなかったにも関わらず、公式戦で42得点を叩き出している。これはルーニー、テベス、サハの3人が挙げた得点の合計と同得点である。ルーニー、テベス、ロナウドの攻撃的なフットボールと、今も破られていないクラブ史上最高額の移籍金で2002年に加入したファーディナンドと、ヴィディッチを中心とした鉄壁の守備で、快進撃を続け、リーグタイトルと、CLを獲得。即戦力とは考えていなかっただろうアンデルソンやナニが予想外に早く、いきなりの活躍を見せたのも大きかっただろう。


なお、世界最高峰とも言われるイングランドのプレミアリーグクラブは、投資先としても魅力的なようで、近年、外資による買収が相次いでいる。ユナイテッドも2005年夏、アメリカ人の資産家でNFLタンパベイ・バッカニアーズのオーナーであるマルコム・グレーザー氏に買収されている。当初はサポーターからの反発が大きく、反対派がFCユナイテッド・オブ・マンチェスターを結成する事態にまで発展した。その後、特にサポーターが心配していたような大きな変化は起きていないようだ。なお、メジャーリーグのNYヤンキースとも業務提携を結んでいる。また何度かの増築工事が行なわれたオールド・トラフォードは、7万6千人収容とイングランドのクラブチームのものとしては最大規模を誇る。オールド・トラフォードのある通りは、現在「Sir Matt Busby Way」と呼ばれ、スタジアム正面にはバスビー監督の銅像が鎮座し、ユナイテッドを見守っている。
 
CLは通算3回うち2回、国内リーグタイトル通算17回うち10回、FAカップ通算11回うち5回がファーガソン監督指揮のもとでの優勝と、ファーガソンはイングランドフットボール史上最も成功した指導者である。そのファーガソン監督の就任後90年代前半から続くユナイテッドの黄金期だが、現在のチームはネビルも、「1999年当時よりも戦力が充実している。計り知れない力が備わっており、CL連覇の可能性も高いと思う」とコメントするほどである。史上最強ともいえるユナイテッドの姿をしっかりと目に焼き付けておきたい。

Reported by 島田佳代子

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