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実家の焼肉屋をゼロから再建する男の物語!プロサッカー選手としての経験、役立てています!~森川 泰臣編~

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2018年7月25日(水) 10:30

実家の焼肉屋をゼロから再建する男の物語!プロサッカー選手としての経験、役立てています!~森川 泰臣編~

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実家の焼肉屋をゼロから再建する男の物語!プロサッカー選手としての経験、役立てています!~森川 泰臣編~
Jリーグ選手のセカンドキャリア特集の第6弾は、森川氏に地元の復興と、将来にかけた思いを存分に語ってもらった

熊本震災復興に立ち上がる元Jリーグ選手!実家の焼肉屋をゼロから再建する男の物語!

森川 泰臣氏(23)は、ロアッソ熊本のジュニアユース・ユースのともに2期生で(2006年設立のジュニアユースには2007年加入。2009年設立のユースには2010年に加入)、2013年にトップ昇格を実現したクラブ生え抜きの選手だった。生まれも育ちも上益城郡益城町。地元愛も強く、生粋の“肥後もっこす”と言えるだろう。

そんな森川氏の生き方を180度変える出来事が約2年前に起こった。2016年4月14日と16日に起きた熊本地震だ。この時の辛さや痛みはどれだけ周囲が同情しても、当事者ではないと分からないだろう。この震災で森川氏の実家と営んでいた焼肉屋は全壊してしまう。
そこから森川氏の闘いの日々が始まる。何度も何度も試行錯誤を繰り返しながらも、実家と焼肉屋の再建に全力を注いでいった。その日々の先に見えたものとは何だったのだろうか。
Jリーグ選手のセカンドキャリア特集の第6弾は、森川氏に地元の復興と、将来にかけた思いを存分に語ってもらった。

―「県内で一番強いチームでプレーしたい!」―

「中学時代はとにかく強いチームでやりたい。県内で一番強いチームでやりたいと考えて、ロアッソ熊本のジュニアユースのセレクションを受けました」
森川 泰臣氏は、そう自身のキャリアを振り返り始めた。清潔感の漂う印象と屈託のない笑顔とは裏腹に、一点を見つめて話すしぐさは芯の強さを思わせる。同時に感じるのは、内面に秘めた強い郷土愛だ。その気持ちはいつ頃からあったのだろうか。

「今振り返って思うのはジュニアユースで3年間プレーして、そのことでロアッソ、ひいては熊本を愛する気持ちが増していきましたね。だからユースに上がる前にサッカーの強豪校という選択もあったのですが、そのままユースに上がりました」
トップチームに上がるにあたって、支えてもらった周囲への感謝を今も忘れていない。実は同世代のユースでトップ昇格を果たしたのは森川氏一人だけだった。さらに現在はなくなった取り組みだが「Jリーグ・アンダー22選抜」のメンバーにも選出された。

「もちろん、トップに上がりたいという気持ちは常に持っていました。当時のスタッフも僕をプロに上げようと凄いサポートをしてくれました。ただ、プロはそんなに甘くなく、トップでは出場機会に恵まれませんでした。そんな時にJリーグ・アンダー22選抜に選出されました。僕と同じように試合に出場できない選手たちの集まりでした。同じ境遇、同じ気持ちを持っている選手たちの中で、どれだけ自分をアピールできるか。そういった意識で臨んでいました」
森川氏は、そういう場を与えてもらったことで日頃の練習から気持ちがまったく変わったという。チームではなかなか出場機会には恵まれないなか、Jリーグ・アンダー22選抜はありがたい場所となった。

―プロ3年目からセカンドキャリアを考えていた―

森川氏は現在23歳。この連載で最も若い年齢だ。若くして引退を決意した彼は、どのタイミングで、どういう理由でセカンドキャリアを意識し始めたのだろうか?
「実はセカンドキャリアを考えるようになったのは、プロ3年目にJ3のガイナーレ鳥取へ行った時です。ガイナーレは1つカテゴリーが下なので、最初は普通に試合に出場できると思っていたんです。ところが、移籍当初こそレギュラー扱いだったのですが、開幕の2日前にお腹に石みたいなものができてしまって……。練習ができずにスタメンから外れてしまいました」
Jリーグ選手になった大部分の人がそうだろうが、自分の一番自信を持てるものが“サッカー”だ。その一番大切なサッカーの試合に出場できない。森川氏は当時、サッカーをやるのが最もきついことだと感じ始めたという。決してサッカーが嫌いになることはなかったが、ネガティブな感情が心の中に芽生え始めていた。

―目を覚まさせた親の言葉―

鳥取での1年目はほとんど試合に出場できない状態が続いた。先が見えない。でも、やらなくてはいけない。そんなもどかしい日々が続いていた。
「たまにでも試合に出場できて、いいプレーができて、試合に絡めれば自分の気持ちの持ちようもまったく違ったと思います。でも、それも今考えれば自分の弱さです。もう一踏ん張りできれば、違った展開もあったのでしょうが……。
結局J3でも、数試合ピッチに立っただけ。それが僕の現実のレベルでした。このままプロとして続けていくのはちょっと厳しいんじゃないか、という考えが心の中に生まれきました」

それでもチームは期待して、3年契約をさらに1年延長してくれた。ところが森川氏は親に「もう、辞めたい」と伝えていた。しかし親御さんの意見は違っていた。
「まだ1年契約が残っている。プロサッカー選手はなりたくてもなれるものではない。今は確かに辛いけど、1年間おもいっきりやって、それでも無理だったらそこで考えればいい」
この言葉にどれだけ救われたか分からないという。背中を押してもらった森川氏は現役を続行することを決めた。

―二度にわたる大地震が熊本を襲った―

2016年、森川氏は鳥取から熊本に戻った。そしてその年の4月14日と16日、熊本は未曾有の大地震に見舞われた。
その日、森川氏は仲の良いGK畑 実選手と近くの温泉へ出かけていた。そこで震災に襲われたのだ。
「いきなりドーン!という衝撃があったんですが、最初はワケがわからなくて……。トラックが事故を起こしたのかと思いました」
スマホを見ると「震度7」という考えられない数字が表示されていた。次の日、チームの練習は通常通り行われたが、余震が続き、とても集中できる状態ではない。さらに災害はそれだけではなかった。前震を免れた後輩の家に泊まろうとした2日後の夜だった。さらに大きな地震が熊本を襲った。
「ちょっと安心した、ではありませんが、守られている空間で落ち着きを取り戻していました。そこでご飯でも食べようかと思った瞬間、本震がきたんです」

壁はミシミシと音を立て、電気は消え、森川氏はパニックに陥った。無我夢中で家を飛び出すと、逃げている女性にヘルメットを渡したり、まだ寒かったので服を貸してあげたりしながら、近くの避難所に逃げ込んだ。翌日、帰宅しようと親に電話するが、家のある場所が避難区域に指定されており、帰ることができなかった。実は家族は空港の近くに避難していて、そこでテント生活を送っていたという。困難はさらに続き、被害もどんどん広がっていた。
被災者を助けている人も被災者。そういった現実を森川氏は目の当たりにする。最初の夜の配給は食パン1枚だけだった。それすら受け取れない人も多くいた。これが、あの日の熊本の現状だった。

―復興に立ち上がったロアッソの選手たち―

あれから約2年が経った。今は森川氏も冷静になって震災を振り返ることができる。
「1回目の前震は何が起こったかワケがわかりませんでした。そこから恐怖心に変わっていきました。余震が凄かったので、揺れるたびに恐怖を感じましたね。2回目は揺れも大きく、もっと長かった。これは死ぬ、と直感しました。学校とかで習いますよね、机の下に入れって。そんなこと実際はできないです。3回目が来たら僕は死ぬと思っていました……」
もしも3回目の地震が襲っていたら、トップアスリートの森川氏ですら死を覚悟していた。精神的に追い詰められ、逃げる気力もなくなっていたのが現実だった。

そんな状態にあったが、もう一度立ち上がって震災復興に奔走することになる。きっけは、ロアッソの選手たちだった。復興支援の中心にいたのは郷土の大先輩である巻 誠一郎選手だった。彼を中心にして物資集め、拠点を作り、そこから各地域に配送していく。この作業を朝から夜までひたすら繰り返した。また子どもたちの心のケアを考え、避難地などでサッカー教室を開いた。これが子どもやその親御さんたちに受け入れられた。
「あの時のサッカー教室はありがたかったと、今も言ってくれますね。地震で子どもたちが怖がると親もやはり不安になる。子どもが笑っていると親も自然と笑顔になります。でも、当時はロアッソのメンバーもすごく迷いました。こんな時にサッカーをやってもいいのだろうかと」
良いか悪いのか分からずに始めたサッカー教室だったが、スタートすると子どもたちが続々と集まり、次第に笑顔になった。振り返ると復興支援はしんどいことばかりだったが、当時、やれることはすべてやったと森川氏は語る。今も当時のロアッソの選手たちの働きぶりは語り草になっている。地域とスポーツクラブの本来の姿を、ロアッソの選手たちは未曾有の非常事態で提示してくれた。

―「お店を継ぐのは、僕だ」―

復興の体験は、プロになって挫折を味わった森川氏の価値観を大きく変えるものとなった。
「サッカー選手としてサッカーで活躍するというのが一番の目標でしたが、僕にはそれが叶わなかった。でも、違う形で熊本を少しでも元気にしようと、いろんな取組みができました。あとになってサッカー教室で出会った子どもと親が来てくれました。当時はひたすら、良いと思うことだけをやっていた。それが後になって仕事につながってくる。今の一生懸命は後になって生きてくる。そんな貴重な体験ができました」

地域が徐々にではあるが復興に向かうなか、森川氏自身には大きな課題が残った。実家の焼肉店の“復興”だ。震災後、家の真ん中に大きな穴が空き、全壊となっていた。前震では天井が軽く落ちたぐらいで修理すればなんとかなったが、本震で完全に倒壊していた。復旧させるのは金銭的な問題が大きく、家族6人で会議となった。結論としては、お店を再開していく方向に決まったが、森川氏はその時、心の中で思ったという。
「いずれお店を継ぐのは、僕だ」と。

―『焼肉 もりかわ』の再建の日々―

周囲の人の後押しもあり、お店の再建を進めていったが問題は山積みだった。 結局、再開するまで1年半の時間がかかり、それまでの間は無収入だった。当時、森川氏はJ3の藤枝MYFCに移籍していたが、心の中では常に家族の心配をしていた。実は近くに屋台を出さないかという話もあったが、それは断って、以前からの場所で店を再開することをブレずに両親とともに進めた。
「補助金関係や保険関係、設備のことは考え抜きました。料理のメニューも研究しました。両親は僕たち以上に不安があったと思いますが、藤枝から帰ると何かを食べさせてくれました。両親と故郷がちゃんとあること、それがこんなにありがたいと思ったことはありませんでした」
森川氏には両親の無言の頑張りがひしひしと伝わっていた。

藤枝MYFCへ移籍する際、森川氏はずいぶんと悩んだ。しかし、周りの仲間たちは「お前は熊本のために頑張ったから、次は自分のためにサッカーで上を目指してこい」「熊本は俺たちに任せろ!」と励ましてくれた。両親も「試合に出られないこっちの環境より、少しでも可能性がある。プレーで勇気をもらえるし、そっちの方が嬉しい」と背中を押してくれた。
自分がプレーすることで家族や熊本の励みになるとまでは思わなかったが、応援してくれるみんなの、少しでも楽しみになれればという想いがあった。
その後に移ったJFLのヴェルスパ大分でも同じ想いだった。リーグのカテゴリーは下にはなったが、両親の前でプレーを見せることができた。
「これで、もういいかなという気持ちになったんです。それも大きかったですね」
2017年末、森川氏は引退を決意した。

―ゼロからの焼肉屋修行が始まった!―

それからの森川氏は、ゼロから焼肉屋での修行を始めた。朝9時頃に起きて毎日網を洗う。団体客の予約があれば、野菜を切ったり、席を作ったり。準備を進めながらお昼ご飯を食べて休憩。そうこうしていると営業時間の17時となる。閉店は23時だが、23時を超えることも珍しくはない。そこから片付け、空いている時間に晩ご飯を食べる。すべてが終わるのは平均的に23時半から24時くらいになる。特に大変なのが営業前の仕込みだという。そこはバイトが入れない作業なので、自分が実家に帰ってきたことで親の負担を減らすことができ、その点は良かったと考えている。

お店の仕事を始めて気づいたことがあった。
“やらなくなったら、成長が止まる”ということだ。サッカー選手と飲食業はなかなか結びつかない点もあるが、基本的な考え方は同じだと思っている。
「サッカーで言えば試合に出場できていない状況でも、常にトレーニングをやり続ける。出場できるようにやり方を変えたり、努力を続ける。飲食も同じで、お客様が来られない時も、接客の仕方はこうしたほうがいい、盛り付け方もこっちのほうが美味しそうに見えるとか工夫する。サッカーも飲食も正解はありませんが、こういった取り組みを続けていくことが大事だと思うのです」
サッカーと同じで常に上を目指しながら努力を続ける。サッカーをずっと続けてきたからこそ得た考え方だ。

―サッカー選手はもっと今の時間を大切にすべき―

サッカー選手の練習時間は1日約2時間くらいだ。今考えると毎日がオフみたいだったと森川氏は言う。
「現役の頃は自由に使える時間がめちゃくちゃありました。その時間を、なぜもっと自分のために使わなかったのかという後悔がありますね」
 自分の将来のために自主練をしたり、何かを学んだり、それはすごく大事なことだと現役の選手に伝えたい。上を目指しながら、自分のためにしっかり時間を使い、それをやった上で、努力や学びを同時に進行していく。これができれば上手に人生を送れるのではないかと今は考えている。

「例えば何か資格を持てば、これもできる、あれもできる、と現役が終わった段階での選択肢が違います。僕みたいに実家が自営業だというのは稀です。自分の時間をサッカーに費やし、プラスしてセカンドキャリアのことも並行して考えていく。僕は18歳でプロの世界に入りました。そして比較的若い年齢で現役を辞めました。だから年齢に関係なく最初から準備をしておく。それは今後の人生に必ず活きてきます」
森川氏は短かった現役時代をこう振り返った。とにかく試合に出られない若い選手には悔いが残らないよう100%やってほしいと願っている。サッカーの世界は素晴らしいが、サッカー選手の人生は短い。悔いが残らないよう一生懸命やることが、次の人生へとつながっていく。
「とにかく毎日を必死にやって欲しいですね」

―「美味しい」と言ってもらえるのが最高に嬉しい―

開店前の仕込みも板につき始めた森川氏は、自分がこの店を継ぎ、この店を守っていくと決め、日々努力を重ねている。
「まずは両親、特に父親にですが、自信を持って店を任せてもいいなと思ってもらえるようになることが一番だと思っています。そして何よりお客様に『美味しい!』と言ってもらえるのが最高にうれしいので、そういった商品を提供できるように自分自身が力をつけないと意味がない。毎日一生懸命、ひたすら積み上げることがやっぱり結局大きなものになります」

あまり先を見過ぎず、1日1日を少しずつ、しっかりと歩んでいく。これを信条に仕事にのぞんでいる森川氏。おかげでお店は毎晩多くの客で賑わっている。
森川氏はインタビューを終えるとすぐに厨房に戻っていった。それは新しい人生を確実に歩んでいる一人の若者の後ろ姿だった。

Text By:上野直彦

 

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