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ペトロヴィッチ「この素晴らしいJリーグカップにふさわしい戦いを続けていきたい」【ルヴァンカップ 30周年記念インタビュー】

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2022年10月20日(木) 17:00

ペトロヴィッチ「この素晴らしいJリーグカップにふさわしい戦いを続けていきたい」【ルヴァンカップ 30周年記念インタビュー】

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ペトロヴィッチ「この素晴らしいJリーグカップにふさわしい戦いを続けていきたい」【ルヴァンカップ 30周年記念インタビュー】
大会名称がルヴァンカップに変わった浦和時代の2016年に初優勝を経験。浦和は2度目の優勝となった。

「この素晴らしいJリーグカップにふさわしい戦いを続けていきたい」

どの決勝も素晴らしい
――2006年にサンフレッチェ広島監督として来日して以降、Jリーグカップ出場14回。この大会の意義についてはどのように感じていますか。
ペトロヴィッチ(以下、P) どの国においてもリーグ戦と並行して開催されるリーグカップというのは、その国のサッカーを代表する大会です。日本ではこのJリーグカップがまさにそれに該当し、このタイトルを獲ることは各クラブにとって大きな意義がある。そのように感じています。同時に私自身にとっても日本で仕事をするうえで非常に重要な大会であると考えています。

広島時代、初めて決勝に進出した2010年は国立競技場でジュビロ磐田と対戦。
広島時代、初めて決勝に進出した2010年は国立競技場でジュビロ磐田と対戦。

私の母国オーストリアにもスポンサー名を冠した大会があります。しかし、このJリーグカップはひとつの企業がスポンサードし続ける大会として世界記録にもなっている、世界的にも例を見ない特別な大会です。本当に素晴らしいことだと心から思っています。それはやはりヤマザキビスケット社が日本サッカーの発展に対して強い想い、情熱を持ち続けているからこその賜物と言えるでしょう。私個人としても御礼申し上げたい。

初めての決勝は2010年、サンフレッチェ広島の監督として。惜しくも準優勝に終わった
初めての決勝は2010年、サンフレッチェ広島の監督として。惜しくも準優勝に終わった

決して簡単なことではないはずです。どんな大企業であろうとも業績は毎年、変動します。しかし、その中で日本サッカーに対しての不変の愛情を持ち続けてくださっている。本当に素晴らしく、美しい歴史がここに刻まれていると言えるでしょう。そのような大会に出場し続けられていることに対しても、とても光栄に思っています。

柏と対戦した浦和での2013年決勝は0-1で惜しくも準優勝。試合後選手に声をかけるペトロヴィッチ監督
柏と対戦した浦和での2013年決勝は0-1で惜しくも準優勝。試合後選手に声をかけるペトロヴィッチ監督

――そのJリーグカップでペトロヴィッチ監督は3クラブを率い計4度、決勝進出を果たしている唯一の外国籍監督です。
P どの決勝も素晴らしい演出、運営をしていただき、最高の舞台で試合をさせていただきました。多くの方に感謝したい。広島を率いた10年の大会が初めての決勝でしたが、試合内容が本当に素晴らしかったことを今でもハッキリと覚えています。終了間際までリードをしていながらも、最後の最後にジュビロ磐田の前田遼一さん(現磐田U-18監督)の得点で同点とされてしまいました。そして延長戦の末に3-5のスコアで敗れてしまうのですが、通常、カップ戦の決勝というのは堅いロースコアの試合になることが多いはず。しかしながら、あの試合では両チーム合わせて計8得点。両チームのサポーターはもちろん、それ以外のサッカーファンの方々にとっても見応えのある試合を選手たちは演じてくれました。磐田の戦いぶりも素晴らしかった。

その後、浦和レッズで16年に優勝(写真)、19年は北海道コンサドーレ札幌で準優勝など、3クラブでファイナリストに
その後、浦和レッズで16年に優勝(写真)、19年は北海道コンサドーレ札幌で準優勝など、3クラブでファイナリストに

浦和レッズでは2度、決勝を戦いました。1度目は13年大会。柏レイソルに対し、我々がボール保持をしながらも得点を奪いきれず0-1で敗れてしまいました。そうそう、柏のGKは今、札幌で一緒に戦っている菅野(孝憲)でしたね(笑))。そして2度目は16年大会。浦和のホームスタジアムである埼玉スタジアムで試合が行われ、サポーターに最高の雰囲気をつくってもらった。それまでに私が2度、決勝で敗れていることもあって『ミシャ(ペトロヴィッチ監督の愛称)を優勝させたい』と選手たちが話してくれて、その意味でも私にとっては思い入れの強い試合になりました。相手のガンバ大阪も質の高い難敵でしたが、もつれこんだPK戦で最後に遠藤航(現シュトゥットガルト/ドイツ)が成功して優勝を決めたときのことは忘れられません。その夜はチームでの祝勝会のあと、自宅でゆっくりと焼酎を美味しく味わったように記憶しています。非常によい思い出です」

敗者が生まれるとは限らない
――そして19年。現在率いている北海道コンサドーレ札幌がクラブ史上、初めて決勝へと勝ち進みました。
P この試合が私にとって一番思い出深い決勝と言えるかもしれません。札幌がクラブとして初めてJ1でタイトルを懸けて、強者・川崎フロンターレに挑んだ試合。私自身、最も強く『勝ちたい』と願い、そして最も強く『悔しい』という思いを抱いた決勝でした。選手は『何が何でも勝ちたい』と試合に向けて練習に励んでくれましたし、クラブスタッフやサポーターみんなが『タイトルを手にしたい』という気持ちでひとつになっていた。しかしながら、勝たせてあげることができませんでした。本当に悔しい思いでいっぱいになりました。選手たちの悔しそうな表情は今でも思い出せます。

歴史に残る激闘と言われる2019年決勝。延長戦を前にチームを鼓舞。
歴史に残る激闘と言われる2019年決勝。延長戦を前にチームを鼓舞。

――そんな19年をはじめ、決勝で敗れてしまった際には、試合後の選手たちにはどのような言葉をかけるのでしょうか。
P 決勝は優勝チームを決める試合です。逆にいえば、どちらかは必ず敗れるということ。大きな歓喜を得られる場であると同時に、大きな悔しさに包まれる可能性もある。華やかな舞台ながら、そうした現実もあります。そしてそこで私は3度、敗れました。もちろん悔しかったです。しかし、幸いなことにどの試合においても選手たちが見せてくれたパフォーマンスは胸を張って『素晴らしい』と称えて然るべきものだったのです。ですから、どの試合後も私は選手たちにこう伝えました。『試合に敗れたという現実はある。しかし、大きな意味で言えば君たちは決して敗れていない。この素晴らしい決勝の舞台まで勝ち進み、素晴らしい試合を演じた。それは勝利に値する』と。その意味では決勝というのは、必ずしも絶対に敗者が生まれるとは限らないのかもしれませんね。私はそう信じていますし、このJリーグカップ決勝はいつも、そうした思いにさせてくれる最高の場所だと思っています」

――現在、Jリーグカップを率いて88試合。歴代3位です。さらに試合数を重ねていただけることを期待しています。
P そう言っていただけることを、心からうれしく思います。これからも、この素晴らしいJリーグカップにふさわしい戦いを続けていきたいですし、大会をさらに盛り上げられるように努力をしていきます。

【プロフィール】
ミハイロ・ペトロヴィッチ/1957年10月18日生まれ。セルビア出身。国籍はオーストリア。旧ユーゴスラビアの名門レッドスターでプレー。93年の引退後、シュトルム・グラーツ(オーストリア)のコーチ時代に当時の監督イビチャ・オシムに薫陶を受ける。2006年6月にサンフレッチェ広島の監督に。攻撃サッカーを掲げ、翌07年にJ2に降格するも、08年はJ2優勝で09年はJ1で4位に躍進。10年にはJリーグヤマザキナビスコカップ準優勝。11年限りで広島を離れ、12~17年は浦和レッズを指揮。16年にJリーグYBCルヴァンカップを制覇した。18年より北海道コンサドーレ札幌で指揮を執り、19年はルヴァンカップ準優勝の成績を収めた

 

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