| 05年12月4日、JFL優勝を決め、観客席でサポーターとともに喜びを分かち合うFW友近聡朗(中央)。(C)愛媛FC |
当時南宇和高監督だった石橋智之氏は、その後愛媛FC総監督に就任。それから12年、愛媛に31番目のJクラブが誕生した。愛媛県リーグから四国リーグ、そしてJFLと各カテゴリーをひとつずつステップアップしてきた道のりは、長く困難の連続だった。
■JFL昇格までの道のり
愛媛FCの前身となる松山サッカークラブは、1970年に創立。石橋氏や現在の愛媛FC権名津朗GM、日本サッカー協会の豊島吉博常務理事長らもかつて所属した。愛媛県中予リーグからスタートし、愛媛県リーグを経て1987年に四国リーグへ昇格。このクラブを母体として94年、株式会社愛媛フットボールクラブが設立されたことをきっかけに、愛媛県からJリーグを目指す挑戦が始まる。
高校選手権で全国制覇を成し遂げた石橋氏は、総監督として地元・愛媛県にJクラブを誕生させることを次の目標に選んだ。「93年にJリーグが開幕し、超満員の観客で埋まった広島ビッグアーチを訪れた時には鳥肌が立ちました。当時、教え子が既に何人かJリーガーになっていましたから、彼らが愛媛に帰ってくることができる場を作るためにも、愛媛にプロクラブが必要だと感じました」Jリーグ加盟の大役を果たした現在、総監督を離れクラブの後方支援に当たっている石橋氏は当時をこう振り返る。
愛媛FCは当初、サンフレッチェ広島と業務提携を結んだ。愛媛で広島のホームゲームを開催するとともに、愛媛FCのユースから選手が広島入りする流れができた。そのため、最初の3年は石橋氏の得意なユース年代の強化から始まる。
南宇和高で培ったノウハウをチームづくりにも生かした結果、愛媛FCユースは97年にユースチームとして初めて天皇杯で勝利を挙げる。2回戦では、ベスト4まで進んだ東京ガスと延長戦にもつれ込む接戦を演じた。
「ユースより弱かった」と石橋氏が評したトップチームの強化は、98年に京都から大西貴選手ら全国高校選手権で優勝した南宇和高のメンバーが地元に戻ってくることで一気に進んだ。成果はさっそく表われ、その年の四国リーグで初優勝を飾った。
| 04年までのチームカラーは青。これまで数多くの選手がJリーグ入りを夢みて戦ったユニフォームだ。(C)愛媛FC |
しかし、JFLを戦うためには年会費、遠征費、ホームゲーム等の運営費を概算すると、選手やスタッフは無給でも年間の予算は最低3000万円はかかる。スタッフはユニフォームや看板のスポンサー集めに奔走すると同時に、ファンクラブの会員募集や試合運営のための会議など、準備は連日のように深夜まで続いた。
こうした熱意は周囲に伝播し、旅行代理店に勤めていた佐伯氏(現愛媛FC事務局長)ら県内で働くサッカー経験者が、それぞれの得意分野で力を出し合うようになる。当初は大西選手らの就職受け入れ先としてクラブに関わっていた亀井文雄氏(現愛媛FC代表取締役社長)は「選手の就職受け入れやスポンサーとしてクラブに携わるうちに、私自身も『愛媛にプロサッカークラブを作る』という石橋イズムに影響されたんですよ」と当時の様子を語った。
サポーターや選手、スタッフなど愛媛のサッカーを愛する人間の力を結集することで、ようやくJFLの舞台に立った愛媛FC。彼らの熱意、そしてクラブに注いだ愛情には、ただ頭が下がるばかりだ。この時期、クラブに携わるものは皆、サッカーと仕事を両立させる状況が続いていた。この後に続くJFLでの5年間は、愛媛FCが「プロ」としてクラブを熟成させる時期となった。
◆愛媛FC:Jを目指した12年〜県民クラブの挑戦を振り返る〜(2)
Reported by 近藤義博














