本日磐田市内にて、名波浩選手(磐田)が現役引退会見を行いました。以下に会見の模様を掲載いたします。
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●名波浩選手あいさつ
「本日はお忙しい中、私・名波浩の引退会見にお集まりいただき、誠にありがとうございます。引退に関しては、今シーズンの初めから今年で引退するということを決意しながらプレーしていたので、急にどうこうというわけではないですが、チームとの話し合いが11月の6日ごろにあって、そこではっきり社長以下、フロントや現場スタッフも含めて、話させていただきました。今後については、まだまだ不透明な点がたくさんありますので、この場で明確なことは言えないので、申し訳ありません」
●質疑応答
Q:引退を迎えるにあたっての今の想いを聞かせてもらえますか?
「気持ちは、やり切ったという気持ちが非常に強いですし、何も不満なく充実した14年間だったと、今振り返れば感じます。また、こうした記者会見を開いていただいて、本当にありがたく幸せな気分でいっぱいですが、14年前の入団発表と、こうして引退という両方の会見を開けるというのは、ごくわずかな人間だと思いますし、そういう場を与えていただいて本当に感謝していますし、たぶん入団発表のときよりも人数が多いと思うので、そのへんも非常にうれしいなと思います」
Q:引退を決断した決め手というのは何だったのか、そして身近な方にはどういう話をしたのか、お聞かせください。
「決め手というのは、膝の具合がプロサッカー選手として1年間通して戦える身体にはちょっと遠いんじゃないかと、自分自身が判断して。またそのケガの影響もあると思うんですが、自分がイメージするパスというものが、細かく言えばボール1個分、2個分という世界の中で、ちょっとバランスの悪さというのを自分自身感じていたので。それが最大の決め手だと思います。
身近な人たちには、とにかく感謝の言葉を述べました。いろいろなタイトルとか、日本代表などの名誉とかも自分の中で財産になりましたが、それ以上に同じピッチに立ったり、指導してくださったりした方々に出会えて本当に良かったと思います。それが14年間のいちばんの思い出というか、みんなに良い思いをさせてもらったなという気持ちが非常に強いです」
Q:引退を決めたとき、中山選手とはどんな話をしましたか?
「中山さんに限らずに、ほぼすべての方に『まだ早いんじゃないか』と言っていただいたので、自分自身もそういう周りの言葉はうれしかったです。ただ、中山さん自身もそうですけど、身体がボロボロな状況を詳しく知っているので、それ以上の強い慰留というのはなかったです。一緒のピッチに立っている時間が非常に長かったので、感謝の言葉も言っていただきましたし、僕自身もそれ以上に感謝しています」
Q:引退を発表するタイミングは、チーム状況を考えるとチーム状況を考えるとむずかしい面もあったと思いますが、そのへんはどう考えていましたか。
「いろんなタイミングを考えていたんですが、森島(C大阪)ぐらいのタイミングが良かったんですが、彼が先に行くぞということで、先に行かれてしまったので……あとは日程的に考えて、ちょうど代表の試合が昨日にあったので、皆さんも神戸帰りとか、テレビを観た次の日ということでタイミングもいいかなと。また新聞の記事的にもかぶらないというね、ちょっと腹黒い計算があったので(笑)、本日にさせていただきました」
Q:最後にジュビロのサックスブルーのユニフォームを着て、現役を終えるということに関しては、どのような想いですか?
「そのことは、必ずこの会見の中で話さないといけないと思っていたんですが、とにかく(磐田に)復帰する場を与えてくれた内山前監督が、強い口調で『とにかくお前はここで辞めないとダメだ』と言っていただいたので、その気持ちというのを強く感じて、チームにいろんな恩返しをしたいなと思っていました。もちろん、右近前社長や現在の馬淵社長とかフロントの幹部の方たちにも受け入れていただく体勢を用意してもらったので、プレーでもそうですし、人間的にもそういうものを返していかないといけないという気持ちで、ユニフォームに袖を通す決意をしました」
Q:ここまでサッカー選手をやってきて、いちばん良かったな、うれしかったなと思った瞬間というのは、どういうときですか?
「俗に言う黄金期というものを築けたというのが、いちばん良い思い出かなと。その試合とかそのゴールとか、瞬間的なものではなくて、いろいろな強くなるまでのプロセスというか、そういうものに自分自身が、少しでもチームの力になれて、携われたというのがいちばんの思い出です」
Q:ここまで応援してくれたサポーターに伝えたいことは?
「すべてジュビロにいたわけではないですが、14年間応援していただき、本当に感謝の言葉を並べても並べても足りないぐらいなんですが……。僕は中山さんと1、2を争うぐらいジュビロを愛していますし、今後もジュビロの力になりたいという気持ちは誰よりも強いと思うので、そういったものを全身全霊かけてやっていきたいと思っていますので、引退後も暖かく見守ってほしいというのがいちばんですね」
Q:ジュビロでの思い出深い出来事や思い出深いタイトルがあれば教えてください。
「出来事は……とにかくチームメイトに恵まれたので、スキラッチ、中山さん、高原、トシヤ(藤田俊哉・名古屋)とか、今は前田とか、ゴールゲッターに恵まれていたので、自分の役割をはっきりさせてくれたチームメイトだったので、本当に彼らと一緒にプレーできたこと。また彼らのゴールシーンにたくさん絡めたというのが、いちばんの思い出だと思います」
Q:藤枝市の出身で、清水商業に入られて、磐田でプレーをしてということで、地元の静岡県でサッカーをやり続けてきたことについては、どんな想いがありますか?
「僕は今だにサッカー王国というのは静岡だと思っていますし、生まれたところが藤枝で、サッカーの街で良いところに生まれたと思います。その後、清水に越境入学しましたが、そこもサッカーの清水ということで、非常にハイレベルなレギュラー争いとか、数々のタイトルも獲りましたし、本当に良い思いをさせてもらったなと。それとともに、ジュビロも含めて、自分が岐路に立たされたときの決断が、ここまで間違っていなかったと自信を持って振り返れるなと思います」
Q:後ろに歴代のユニフォームが並んでいますが、とくに愛着の強いユニフォームはありますか?
「えーと(後ろを見ながら)……やっぱり完全制覇したときの、2002年のときかなと思いますね。あと、唯一と言っていいかどうか、心残りなのはセレッソ時代に、自分の力を認めていただいて、残留させるために呼んでいただいたのに、降格してしまって今なおJ2にチームがいるというのは、僕の責任というのが非常に大きいと思うので、唯一それが悔しいなというところだと思います」
Q:入団したときの今の自分と、今の自分と、サッカー人としていちばん変わった部分は?
「変わった部分というのは、今はまだまだ自分自身が未熟なので、そういったものは判断できませんが、14年前の入団発表のときに、『自分の左足の下にボールがあるときは注目してほしい』と豪語しました。それが14年経って、活字なんかも含めて『左の名波』とか『名波の左足』というのは、自分のもっとも好きなフレーズですし、名波は左利きなんだと、『とにかく左を注意すればいいんだ』という相手チームの意識とかも含めて、それが14年間で浸透できたというのが、僕にとっては有言実行できたので、それが自分の自信になりますね」
Q:将来のことは未定ということですが、いずれ指導者の道に進んで、このチームを指揮したいという意欲はありますか。
「そうですね。C級、B級とライセンスのほうは取得できたので、そういった道というか、選択はもちろんありますし、ジュビロ愛というのは非常に強いので、ジュビロ以外は考えられないという気持ちでいます。入団したのも、こうして辞めるのも、ジュビロで良かったと今なお思えているので、できればこのチームで指導者としてスタートしたいなと思います」
Q:ジュビロ愛という言葉がありましたが、他のチームにないジュビロの魅力というのはどういうところですか?
「時代が変わると、サッカースタイルも指導者もフロントの方も入れ替わるので、一概にひとつの答えはスパッと言えませんが、将来のビジョンというのをつねに持っていて、何年後かという理想の結果とか目標に向かってチームみんなで作り上げていこうという将来的なビジョンというのを明確に持っていて、それがフロント、選手一体となって突き進んでいこうというスタイルが僕は大好きです」
Q:残り3試合、J1残留がかかった試合に対して、意気込みをお願いします。
「僕の引退と残留というのはまったく別物だと思っていますし、僕がプレーする機会があれば、もちろんそんな気持ちはまったく捨てて、チームが勝点3を獲るために全力を尽くすのはもちろんです。それはチームメイトも同じで、名波のためにとかそんな気持ちは捨てて、チームをとにかく残留させて、来年への道というのを作っていってほしいなと切実に思っています」
Q:日本代表としての思い出の試合、思い出のシーンがあれば教えてください。
「日本代表というのは、小さい頃からの目標ではありましたが、まさか自分自身が入って何十試合も出られるなんて、マンガでも描けないかなと自分自身は思っていたので、ワールドカップとかいろんな試合に出て、国際試合というのを経験させていただいて、非常にうれしく思います。だからこそこの1試合というのは特別になくて、すべてのゲームに全力でやれたので、それがいちばんの思い出です」
Q:14年間の選手生活で、後継者と感じる選手はいたでしょうか?
「対外的にも口にしている上田康太と、今期限付移籍で鳥栖にいる船谷圭祐の2人に関しては、これからジュビロを引っ張っていく立場ということを考えると、後継者という言葉が合うかどうかわかりませんが、中心選手としてうまく育っていってほしいなと思います」
Q:ベネチアに行っていた経験というのはどういう意味がありましたか?
「事の発端は、フランス・ワールドカップの後に中田英寿がイタリアに移籍して、自分も行ってみたいと漠然と思ったのが最初なんですが、ジュビロのチームのほうが、J1に優勝しないと行ってはいけないということだったので、(99年の)ファーストステージに晴れて優勝することができて、自信を持ってイタリアに行くことができました。その後、言葉の問題だったり、サッカーの違いであったり、いろんな壁にぶつかりましたが、イタリアでの1年というのは、プロサッカー選手としても人間としても自分を一回りも二回りも大きくしてくれたんじゃないかなと。それを後に2002年のアジアカップで自分が体現できて、まだたった1年でこんなにもパフォーマンスレベルが上がるんだということを実感できたので、それは後輩たちにも伝えている部分ですし、これから指導者の道に行くことがあれば、そういうものを伝えたいと思います。それぐらいの大きな経験です」
Q:日本代表の先輩として、今の日本代表がどのように映っているかということと、W杯予選に向けてのアドバイスがあれば。
「W杯予選というのは、どこの国でもそうだと思いますが、何が起こるかわからないというのが常ですし、とくにアジアはアウェーでの移動距離が非常に長く、国内リーグの過密日程とか、海外組との融合する時間の短さとか、さまざまな問題もありますし、今現在はケガ人もたくさん出ていますが、とにかくコンディションさえ整えば、予選突破というのは僕は明るいと思っているので、心配はしてません。ただ、本大会に行った後に、どれぐらい日本らしさを出すとか、選手個々でどれだけ自分のパフォーマンスを世界にアピールできるかというものは、もっと上を見ても良いと思います。ケンカをしたり、話し合いの場というのをたくさん持って、みんなでチームを作っているんだという認識の下に、チームごと個人も成長していってほしいなと思います」
Q:当時に比べて、今は強くなっていると思いますか。
「それは間違いないと思います」
以上













