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2021年9月24日(金) 08:00

【後編】広島で手にした栄光と、名古屋での苦闘。そして、古巣帰還で見出した新たなやりがい【ターニングポイント:千葉 和彦編】

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【後編】広島で手にした栄光と、名古屋での苦闘。そして、古巣帰還で見出した新たなやりがい【ターニングポイント:千葉 和彦編】
千葉 和彦にとっての「ターニングポイント」とは?

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プロフットボーラー千葉 和彦を作った地獄の高校時代と孤独なオランダ生活

2005年8月、アルビレックス新潟と契約を結び、千葉 和彦は晴れてプロサッカー選手としての一歩を踏み出した。

しかし、夢に見ていたその舞台は、決して甘いものではなかった。

「プロになれて嬉しかったのと同時に、オランダ時代とのギャップが結構あって、それがすごく不安でしたね。獲ってもらったものの、自分がこのサッカーにフィットしていけるのかなって」

オランダのサッカーは基本的に4-3-3のシステムで、ポジションを大きく崩さずにボールを動かしていくという考え方がベースにある。千葉はオランダに行った当初、ボールを受けるために動き回っていると、「お前、そんなに動かなくていいぞ。良いポジションを取っていれば、ボールは勝手に回るから」と注意されたという。

1年半の時間の中で千葉はそのスタイルに徐々に慣れていったのだが、日本のサッカーは大きく異なる。攻守の切り替えの速さとポジションを激しく動かすサッカーを目の当たりにし、戸惑いの色を隠せなかった。

スタイルだけではなく、選手の質にも驚かされた。

「僕と同じタイミングで、ポジションもかぶる菊地 直哉さんが新潟に入ったんですよ。菊地さんは高校時代から有名でしたし、アテネ五輪にも出場したすごい選手でしたけど、最初の日に1000メートルを8本くらい走るフィジカル練習があって、そこで僕はぶっちぎりで勝ったんです。『なんだ、菊地 直哉も大したことないな』って(笑)。でも、戦術練習が始まるとめちゃくちゃうまい。僕とは全然レベルが違って、『ああ、これは勝てないな』って、いきなり心が折れましたね」

当時の新潟を指揮した反町 康治監督にも、怒られることばかりだったという。試合にもなかなか出ることができず、サテライトの試合でも手応えを得ることはできなかった。そのため、シーズン終了後に契約を切られる覚悟もあったという。

「契約更改の時に紙を渡されたんですけど、怖くてなかなか見られなかったですね。トイレにこもって恐る恐る見たら、契約更新してくれることが分かったので良かったですけど、あの時は生きた心地がしませんでした」

何とかプロのキャリアをつないだ千葉は、翌2006年、反町監督から鈴木 淳監督に代わり、新しいチームとなるなかで、徐々に頭角を現していく。

「淳さんは結構ターンオーバーをする人で、ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)で使ってくれて、まずまずのプレーができたんです。それくらいからですかね、プロでもやっていけるっていう手応えを得られたのは」

今のポジションであるCBにコンバートされたのもこの時期だ。

「夏くらいにCBに怪我人が出たこともあって、お前やってみろと。ボランチにこだわりがあったから初めは嫌でしたけど、最初にサテライトの試合でCBとして出た時に、いいプレーができたんです。それでリーグ戦でもCBとして出る機会が増えていきました」

CBにコンバートされた千葉は、鈴木 淳監督の下で信頼を掴み出場機会を増やしていった
CBにコンバートされた千葉は、鈴木 淳監督の下で信頼を掴み出場機会を増やしていった

残留争いのライバルだったヴァンフォーレ甲府との一戦でもCBとして出場し、相手のエースであるバレーを抑えて3-0の完封勝利に貢献した。すると試合後に先輩の内田 潤から声をかけられた。

「今日はお前のおかげで勝てたと言われたんです。お前がバレーを抑えてくれたから勝てたんだよって。それが本当に嬉しくて、今でもはっきりと覚えていますね。あの試合でやっていけるという自信がつきました」

相手のエースを封じる対人プレーの強さもさることながら、千葉の特徴はしっかりとボールをつなげるビルドアップ能力にある。

「僕はそんなに意識してなかったんですけど、当時のチームメイトだった岡山 哲也さんや、宮沢 克行さんに『お前は良いインサイドキックを持っているんだから、それをどんどん出して行け』って、アドバイスされていたんです。当時はまだCBにパス能力が今ほど求められていなかったんですけど、おふたりはそういう時代になることが分かっていたんでしょうね。僕の能力をしっかりと見てくれていたこともありがたいこと。あの時はお礼を言えていなかったので、この場をお借りして感謝の気持ちを伝えたいです。直接言えって? ですね(笑)」

そのビルドアップ能力は、他チームからも高く評価されていた。その中の一つがサンフレッチェ広島である。ミハイロ ペトロヴィッチ監督の下、後方からボールをつなぐパスサッカーを体現していたチームは、まさに千葉のようなタイプのCBを求めていたのだった。

一方で千葉も、広島のサッカーに興味を抱いていた。

「単純に広島のサッカーが楽しそうだなと。かなり特殊なサッカーをしていたので、外から見ていても新鮮でしたね。だから広島から話が来た時には、迷うことはありませんでした」

新潟で経験を積むなかで、チームに欠かせぬ存在までに成長を遂げていた千葉だが、2012年、広島への移籍を決断した。

ところが千葉の移籍と同じタイミングで、広島のサッカーの基盤を作ったペトロヴィッチ監督の退任が決まった。

「ミシャさん(ペトロヴィッチ監督の愛称)が僕のことを知っていたかどうかわからないですけど、後から聞いたら話では、もっと早く獲りたかったと言ってくれていたらしいです。ただ、ミシャさんがいなくなるけど、今のサッカーがベースになるという話だったので、広島に行くことに不安はありませんでした」

ペトロヴィッチ監督の後任に就いたのは、森保 一監督だった。森保監督は前年まで新潟でコーチを務めていたため、千葉を広島に連れてきたという噂もあった。

「いや、僕は森保さんが監督になるのは知らなかったんですよ。移籍を決めた後に電話がかかってきて、俺が監督をやることになったって。森保さんは律儀な人で、就任が決まった時に広島の選手全員に電話したそうです。それで移籍を踏み止まった選手もいたらしいですね」

広島では3バックの中央に君臨し、移籍1年目に初優勝に貢献。翌年には連覇を成し遂げ、2015年には三度目の優勝を勝ち取った。

まさに黄金期を主軸として支えた千葉は、当時を次のように振り返る。

「優勝するかもという感じでは過ごしていなかったんですよ。みんな一つひとつの試合を楽しもうという感じでしたね。森保さんも優勝という言葉を口にしない人で、まずは残留ラインを目指そうと言っていたくらいでしたから。どんな時でもそのスタンスがブレることがなかったし、だから選手たちも浮つくことはなかったです。何より、あのサッカーで相手を圧倒し、自分たちがやりたいようにできていた試合が多かったので、とにかくサッカーをするのが楽しかったですね」

三度の優勝のなかで一番思い出深いのは2015年だという。

「どれも嬉しかったですけど、自分の中で一番手応えがあったのは2015年です。全試合にフル出場させてもらったので貢献できたという想いが強いですし、前年に3連覇を逃した後の優勝だったので、喜びもひとしおでした」

一番思い出深いと語った2015年のJ1制覇
一番思い出深いと語った2015年のJ1制覇

もっとも広島の時代は、長くは続かなかった。2016年には1stステージで4位、2ndステージでは10位に終わり、優勝争いに絡めないままシーズンを終えると、2017年は開幕から大きく低迷し、残留争いに巻き込まれた。

シーズン途中には森保監督が退任となり、代わって指揮を執ったヤン ヨンソン監督の下で何とか残留を果たしたものの、かつての強さは失われていた。

そんなチームの中で、千葉も苦しんだ。

「2017年は試合には出ていましたけど、パフォーマンスは良くなかったですね。森保さんも途中で退任されて、新しい監督が来たなかで、次第に僕のイメージしていた広島のサッカーではなくなっていきました。もちろん、残留をしなくちゃいけない状況のなかで、割り切ってやっていましたけど、あの時期は楽しさや、プレーする喜びを感じるのは難しかったです」

翌2018年も、千葉の心は晴れなかった。城福 浩新監督の下、開幕スタメンの座を手にしたが、その試合で骨折し、長期離脱を強いられた。一方、千葉のいないチームは開幕から結果を出し続け、一時は首位を独走し、優勝に向けて突き進んでいた。

「2018年は、怪我もあって思うようにいきませんでした。チームも調子がよかったので、怪我が治ってからもなかなか自分が試合に出てチームを助けられるイメージがわかなかったんですよ。後半戦になってチームが勝てなくなった時も、自分を出してくれという気持ちよりも、試合勘に対する不安だったり、早くコンディションを戻さないといけないなという想いのほうが強かったですね」

結局、千葉は最後まで調子を取り戻せないまま、このシーズンをもって、広島を離れる決断を下した。

翌2019年、千葉は新天地に名古屋グランパスを選んだ。移籍の決め手は指揮官の存在だったという。

「風間(八宏)さんとやってみたかったんですよね。川崎Fで面白そうなサッカーをやっていて、名古屋では結果こそ出ていなかったですけど、川崎Fみたいなサッカーを目指しているんだなと感じていました。僕が行った年は、風間さんの3年目で、そろそろ結果も出せる頃かなと。あのサッカーで強くなっていく時期に携われたらいいなと思っていたところ、話をいただいて、チャレンジしてみようと決めました」

風間監督のサッカーの面白さは、いろんなところから聞いていた。広島時代の先輩で、当時名古屋に所属していた佐藤 寿人からも「もっとサッカーが上手くなるよ」とアドバイスを受けていた。

「僕自身、もう一花咲かせたかったのもあるし、今までとは違う発想を持って、さらに上手くなりたいという想いがありました」

その時、千葉はすでに33歳となっていたが、向上心が枯れることはなかった。

もっとも千葉は、名古屋での2年間で、リーグ戦にわずか1試合しか出場できなかった。

「全然出られなかったですけど、風間さんに教えてもらったことは今も残っていますね。止める・蹴るという部分もそうですし、発想の斬新さというか、今まで教わったことがないようなことばかりだったので、自分にとってはプラスになりました」

名古屋では出場機会は得られなかったものの、「自分にとってプラスだった」と語った
名古屋では出場機会は得られなかったものの、「自分にとってプラスだった」と語った

だから、試合に出られなくても腐ることはなかったし、自らの置かれた立場を理解して、チームのためにできることを考え続けた。

「もともとプライドはないほうだし、出られないなら自分の実力不足を理解して、もっと努力しないといけないと考えるタイプですから。それに出られないからと不貞腐れて、みんなに気を使われるのも嫌じゃないですか。年長者でもあったので、フランクに接しやすい空気感を作ることは意識していましたね。僕もいろいろ経験してきましたから。その辺は上手くやりますよ(笑)」

そして今年、千葉は自らのキャリアをスタートさせた心のクラブに、10年ぶりに復帰した。

「今の監督になって、面白いサッカーをしているなって思っていたんですよね。そこが復帰を決めた一番の理由です。自分がやれるイメージを持ちやすかったんですよ。それとやっぱり、自分が若い時にお世話になった新潟に恩返しをしたいという気持ちもあります。『10年前から応援してたんだよ。帰ってきてくれてありがとう』と言ってくれる人もいる。そういう人たちのためにも、良いプレーを見せていかなければいけないと思っています」

10年という月日の長さに驚かされることもあった。

「当時、小学生のサッカー教室に教えに行ったことがあったんですが、そのスクールに来ていたのが本間 至恩。『俺、千葉さんのサッカー教室に行ったんですよ』って言われた時には、さすがに年を取ったなと感じましたね。あの時の小学生と、今はチームメイトですから。嬉しいことですよ」

「自分がやれるイメージを持ちやすかった」という千葉の見立ては、間違ってはいなかったようだ。開幕からスタメンの座を確保すると、いきなりゴールも記録。名古屋時代に試合に出られなかったブランクも、年齢的な衰えも感じさせず、ここまで最終ラインの要としてピッチに立ち続けているのだ。

「オランダ時代に学んでいたものが、蘇ったような感じがあるんですよね。アルベルト監督はバルセロナの育成に携わっていて、サッカーはこうやるんだよというのを、若い選手たちに教えていた方。何気なくプレーしていたものを言語化してくれるので、なぜいいのか、なぜ悪いのかが分かりやすい。自分のプレーを肯定してくれるので、嬉しいですし、やりがいも感じています」

キャリア初のJ2で戦う今季は、当然ながら、新潟をJ1に戻すことが最大のターゲットとなる。ただし、千葉はそれだけが目的ではないという。

「もちろんそこは頭に入れていますけど、新潟のサッカーを確立させることが重要だと思っています。新潟はこれまでどちらかと言うと、リアクションのようなサッカーをしていた時期が長かったと思いますが、今の監督になってからは、自分たちからアクションを起こすサッカーにシフトしてきている。そのスタイルを決定づけるシーズンにしたいと思っています。5年後、10年後に、この2021シーズンがあったから今の新潟がある。そう胸を張って言えるようなシーズンにしたいと思って、今はやっています」

10年ぶりに復帰した新潟では主力として活躍。J1復帰だけではなく、新潟のサッカーを確立したいと意気込んでいる
10年ぶりに復帰した新潟では主力として活躍。J1復帰だけではなく、新潟のサッカーを確立したいと意気込んでいる

振り返れば波乱万丈のキャリアだった。栄光も挫折も味わいながら、36歳となった千葉は今もピッチに立ち続けている。なかでもやはり思い出されるのは、過酷で苦しかった高校時代の3年間だ。しかし、人生の恩師との出会いも、その3年間にあった。

「高校の時の監督の内田 義幸先生ですね。強烈でしたけど、ひとり恩師を上げるとすれば、その先生になると思います。一番印象に残っているのは、『勉強は普通でいいから、人物として一流になれ』と言われたこと。当時は何が一流なのか分かっていなかったけど、今になってようやく、こういうことなのかなというのが、なんとなく分かってきました。人としてどうあるべきかという指針を示していただきましたし、その教えが今の自分を形成していると思っています。だから、あの3年間こそが、僕の原点ですね」

あの日、眼鏡をかけた坊主頭の少年は、一流への道へと、その一歩を踏み出したのだ。

千葉 和彦のプロフィール

 

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