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阿部 勇樹「この大会で頂点に立ったときに味わう高揚感は、ほかにはないものがあります」【ルヴァンカップ 30周年記念インタビュー】

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2022年10月20日(木) 17:00

阿部 勇樹「この大会で頂点に立ったときに味わう高揚感は、ほかにはないものがあります」【ルヴァンカップ 30周年記念インタビュー】

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阿部 勇樹「この大会で頂点に立ったときに味わう高揚感は、ほかにはないものがあります」【ルヴァンカップ 30周年記念インタビュー】
阿部 勇樹のJリーグYBCルヴァンカップ 30周年記念インタビューです。

「この大会で頂点に立ったときに味わう高揚感は、ほかにはないものがあります」

喜び方が分からない
――ジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)にとって、クラブ初タイトルはJリーグヤマザキナビスコカップでした。2005年当時、阿部勇樹さんはキャプテンを務めていましたが、いまでも鮮明に覚えていることはありますか。
阿部 まず頭に浮かぶのは、決勝までの厳しい道のりです。準々決勝でジュビロ磐田、準決勝では浦和レッズという強敵を倒して、勝ち上がっていきました。

2005年、ガンバ大阪とPK戦にもつれ込む決勝を制し、Jリーグカップはもちろん、クラブとして初のタイトルを手にし、喜ぶ阿部勇樹らジェフユナイテッド市原の選手たち
2005年、ガンバ大阪とPK戦にもつれ込む決勝を制し、Jリーグカップはもちろん、クラブとして初のタイトルを手にし、喜ぶ阿部勇樹らジェフユナイテッド市原の選手たち

――苦労して、たどり着いた決勝を迎える前に思ったことはありますか。
阿部 昔のことを思い返していました。僕がまだジェフのアカデミーでプレーしていた高校2年生のころです。1998年7月19日。ジェフがリーグカップ戦で初めて決勝へ進んだこともあり、アカデミーの選手たちは国立競技場へ足を運んでいたんです。優勝すれば、クラブが祝勝会を開く話を聞いていたので胸を膨らませていました。ただ、結果は0-4の大敗。磐田の選手たちが喜ぶ姿は脳裏に刻まれています。僕もいつかこの場所で優勝したいなって思いました。16歳のとき、スタンドから見た光景は忘れられません。

――阿部さんにとって、05年大会は7年越しの雪辱を果たす思いもあったのですね。決勝の会場は、同じ国立競技場。
阿部 何としても、ここでジェフに初タイトルをもたらすんだという気持ちは強かったですね。スタンドを見上げると、ほぼ満員。あんな経験は初めてでした。この1試合ですべてが決まると思うと、責任の重さをひしひしと感じました。クラブの未来が懸かっているなって。ベンチの雰囲気も違いました。イビチャ・オシム監督はいつもの黒いジャージではなく、スーツを着ていましたから。決勝に懸ける思いが強かったんでしょうね。

――ガンバ大阪との試合は、スコアが動かないまま延長戦に突入しました。
阿部 0-0の時間が続けば、チャンスはあると思っていました。オシム監督に相当鍛えられていたので、運動量には自信を持っていたんです。正直、僕は足がつりかけていましたが、1分でも長くプレーしたくて、最後まで頑張りました。

――延長でも決着がつかずにPK戦となり、阿部さんは1人目のキッカーでした。
阿部 GKの立石智紀さんが先に止めてくれたので、気持ちが楽になり、落ち着いてゴールに蹴り込むことができました。オシム監督は見ていなかったですけどね。以前からPK戦は見ないと聞いていたのですが、本当に見ていませんでした。

2005年はニューヒーロー賞を授賞。決勝前に受賞選手として紹介された。左はヤマザキナビスコ株式会社(現ヤマザキビスケット株式会社)飯島茂彰代表取締役社長。
2005年はニューヒーロー賞を授賞。決勝前に受賞選手として紹介された。左はヤマザキナビスコ株式会社(現ヤマザキビスケット株式会社)飯島茂彰代表取締役社長。

――優勝が決まった瞬間は、どのような思いがこみ上げてきましたか。
阿部 言葉に表せないほどうれしかったです。でも、喜び方が分からなくて……。僕自身、ジュニアユース、ユースを含めて、初めてのタイトルだったので。表彰式で優勝カップを掲げるときも、ぎこちなくて、ファン・サポーターを盛り上げることもなく、淡々と上げてしまった。セレモニーで印象深かったのはオシムさんに胴上げを断られたこと。本気で拒否され、選手たちみんなで笑っていました。

――阿部さんは05年大会のニューヒーロー賞も受賞しました。
阿部 当時24歳※でぎりぎりの年齡だったこともあり、もらっていいのかなと思いつつも、喜んだのを覚えています。個人賞はもらったことがなかったので。

価値ある素晴らしい大会
――05年の初優勝から1年後、ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)以来、史上2クラブ目となる連覇を成し遂げました。
阿部 勝ち進むにつれ、2連覇すれば、ジェフの名前を歴史に刻むことができると思っていました。「負ければ何も残らない」と話していたので。延長までもつれた準決勝の川崎フロンターレ戦は、はっきり覚えています。2-2の終了間際にPKを決め、決勝へ駒を進めました。(準決勝第1戦は2-2、第2戦は3-2で千葉が勝利)

2006年、2年連続でリーグカップ戦を制覇。2年目となるとセレモニーもおてのもの?
2006年、2年連続でリーグカップ戦を制覇。2年目となるとセレモニーもおてのもの?

――2度目の決勝は違いましたか。
阿部 前年に比べると、自分たちのサッカーを見せることができたと思います。全員で攻めて守り、鹿島に2-0で勝つことできました。06年大会ではファン・サポーターを盛り上げて、優勝カップを掲げることもできましたし、オシム監督からチームを引き継いだ息子のアマル・オシム監督の胴上げもできましたから。やはり、2回目は違います。

2016年の決勝は延長戦の末、PK戦に。PK後攻の浦和で最初にゴールを決めてガッツポーズ。
2016年の決勝は延長戦の末、PK戦に。PK後攻の浦和で最初にゴールを決めてガッツポーズ。

――2連覇を達成した10年後の16年には、浦和レッズの一員として自身3回目の優勝を果たしています。
阿部 大会名称がルヴァンカップに変更になった1年目ですね。決勝でPK戦に突入したとき、「これは勝ったな」と思いました。個人的に05年大会で同じG大阪を相手にPKで勝っていますから。10年の歳月が経っても、優勝カップをあの場所で掲げるのは格別でした。僕は浦和に加入後、国内タイトルを取ったことがなかったですし、会場はホームの埼玉スタジアム。スタンドの表彰式でファン・サポーターの喜ぶ顔を間近に見られたのは思い出深いです。

表彰式でルヴァンカップを受け取り、表彰台の中央でスタンドに向けて笑顔を見せる。
表彰式でルヴァンカップを受け取り、表彰台の中央でスタンドに向けて笑顔を見せる。

――21年限りで現役を退いた阿部さんにとって、Jリーグカップはどのようなものでしたか。
阿部 リーグ戦とはまた違う面白さがありました。予選リーグを突破し、ホーム&アウェーの決勝トーナメントで上を目指す戦いは特別です。カップ戦で頂点に立ったときに味わう高揚感は、ほかにはないものがあります。そして実際に優勝を経験し、また他のタイトルももっとほしいと思うようになりました。一つのきっかけをくれた大会でした。

――今年、ルヴァンカップは30周年を迎えました。今後に向けて、どのような大会であり続けてほしいですか。
阿部 過去を振り返れば、若い選手が活躍し、ヒーローになっていくイメージがあります。今後はこれまでの良いものは残しつつも、変わっていくことも大事。今も昔も大きなタイトルの一つであることには変わりません。これからも価値ある素晴らしい大会であってほしいですし、もっと発展するために選手や自分たちスタッフも頑張らなくてはと思っています。

※阿部選手受賞当時のニューヒーロー賞は、大会開幕当時に23歳以下の選手が対象。

【プロフィール】
あべ・ゆうき/1981年9月6日生まれ。千葉県出身。現役時代のポジションはMF。ジェフユナイテッド市原ユース時代の98年8月5日に、当時のJリーグ最年少記録の16歳333日でリーグデビュー。2005、06年のJリーグカップ連覇に導く立役者の1人に。07年に浦和レッズに移籍。10年にはワールドカップ・南アフリカ大会に出場した。同大会終了後、レスターシティFCに移籍。12年に浦和に復帰し、16年には自身3度目のJリーグカップ優勝を経験している。21年をもって現役を引退。現在は浦和ユースのコーチ、日本サッカー協会のロールモデルコーチを務める。現役時代のJリーグカップ成績は78試合出場13得点

インタビュー/執筆 スポーツライター 杉園 昌之
インタビュー撮影 阿部 卓功
協力 浦和レッズ、(株)スポーツコンサルティングジャパン

 

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